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「ハイデッガーによるコギトの射程は」

 ハイデッガーによるコギトの射程は、哲学的探求の中でも特に重要なテーマの一つです。マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger)は、20世紀を代表する大陸哲学者であり、彼の思想は存在論、現象学、解釈学など多岐にわたります。ここでは、ハイデッガーがデカルトの「コギト・エルゴ・スム」(Cogito, ergo sum)に対してどのようにアプローチし、その射程をどのように再解釈したかについて考察します。

デカルトの「コギト・エルゴ・スム」

 まず、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」とは、「我思う、ゆえに我あり」という意味です。デカルトは、この命題を通じて疑い得ない確実な真理を見出そうとしました。彼にとって、思考する主体(コギト)は最も基本的な存在であり、この確実性を基盤にして他の知識を構築しようとしました。

ハイデッガーの批判と再解釈

 ハイデッガーはデカルトの「コギト」に対して批判的な立場を取ります。彼の主著『存在と時間』(Sein und Zeit)において、ハイデッガーはデカルト的な主体中心の存在理解を超えるための新しい枠組みを提案します。

存在論的差異

 ハイデッガーの哲学の中核には「存在論的差異」(ontological difference)という概念があります。これは、「存在」(Sein)と「存在者」(Seiendes)の区別を指します。デカルトは「我思う」という主体(存在者)に焦点を当てましたが、ハイデッガーはその背後にある「存在」そのものに注目します。

ダーザイン(Dasein)

 ハイデッガーは人間存在を「ダーザイン」(Dasein)という概念で捉えます。ダーザインとは「そこにある存在」を意味し、人間が世界の中でどのように存在しているかを示しています。ダーザインは単なる思考する主体ではなく、世界との関係性や時間性を持つ存在です。

世界内存在(Being-in-the-world)

 ハイデッガーは人間の存在を「世界内存在」(Being-in-the-world)として捉えます。これは、人間が常に世界との関わりの中で存在していることを意味します。デカルトの「コギト」は孤立した主体として描かれますが、ハイデッガーにとって人間は常に他者や物との関係性の中で成り立っています。

時間性と実存

 さらに、ハイデッガーは人間の存在を時間的なものとして捉えます。彼は「現存在」(Existenz)という概念を用いて、人間が自己の未来や過去との関係性を通じて自己を理解し、存在していることを強調します。この視点から見ると、デカルトの「コギト」は瞬間的な確実性に留まるものであり、ハイデッガーの時間的な実存理解とは異なるものです。

結論

 ハイデッガーによるコギトの射程は、デカルト的な主体中心の哲学から脱却し、人間存在をより包括的かつ時間的な視点から捉える試みです。彼の思想は、存在とは何か、人間とは何かという問いに対して新しい洞察を提供し続けています。ハイデッガーの哲学は難解でありながらも、その射程は現代哲学においても重要な影響を与え続けています。

ハイデッガー全集

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