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日本から脱出すれば幸せになれるのか

年々日本はいろいろな方面で世界全体から遅れをとっている様に感じるのは、私が台湾に住んでいるからという理由だけではないはず。

高校時代に資生堂とUN Women主催のイベントに参加したおかげでジェンダーギャップというものへの理解や知識を深めた。

地元愛知県にある名古屋大学にはジェンダーリサーチライブラリという素晴らしいジェンダー問題に関する書が豊富に揃えてあり、高校生でありながら友人たちと館長さんにお願いして図書カードを作っていただいたことはとても嬉しく心に残っている。
当時知れば知るほど日本社会の遅れ具合にフラストレーションを抱き、社会全体に蔓延る「伝統的価値観」に対する怠慢な見方に肩を落とした。
なかなか可哀想な高校生だとも思う。
現状に肩を落として、社会に諦めを抱いて、日本社会からの脱出をして自分だけでもマシな人生をと考えた。周りの人々を見た時、現状を変えるために身を粉にしたってそんな価値がここにはあるんだろうか、とさえ思った。


そんな私にとって台湾はとても魅力的であった。アジアの中では比較的に前衛的な考え方を持ち、合理性を大事にする国民性。政治面での蔡英文總統を筆頭とし、女性は様々な分野で男性と同じように活躍する。学校でも女の子だって男の子だって大学院へ行くことは当たり前の選択肢としてある。将来は家庭に入って落ち着きたい、などど行った言葉は愚か、結婚どころか今は勉強よ!と言った姿勢はもし日本であれば変わった子だ、とでも言われるのではないだろうか。私はそんな台湾で学生時代を送れることにとても満足感と爽快感を覚えていた。

しかし、コロナが起き、家族が心配だったので、今年の冬は日本に帰ることにした。そこで感じたのは、私が日本人であるという事実は変えられないこと。日本こそが私の故郷であり、そこは私の守りたい人と愛しているもので溢れているということ。保守的な家庭で育った私には、伝統的な振る舞い、考えが体の奥まで染み渡っていたということ。

高校生の頃はただ批判ばかりしていた。ダメな社会だ、腐っている伝統、日本なんてでてってやる。けれど、私は生粋の日本人であって、おまけに台湾に戻る際にはやれ風呂敷やら、日本人作家の純文学書やら、桜の香りのお香やらと大量の日本を感じられるものを買った。何百本とみた洋画に対して見たことのある邦画はジブリを抜けば二十本といった程度だったと思うが、隔離の際には邦画をいくつか自然に選んでみていた。さらに言えば俳句を始めて最近は常に句について考えている。

そうして改めてコトを見てみれば、日本社会がダメすぎるとか、保守的な右翼め!とかそういった言葉があまりにも暴力的で投げやりだったということをしみじみと反省する。あれはダメ、私には解決できない、とかそういったはっきり、キッパリとできることではないわけで。日本に根強く残る伝統を重んじる風習や文化の背景にはそうなるための歴史があり、根本を辿っていって、どこに考えを改めるべきところがあるのかを見定める必要があるに違いない。

ただ単純に表面上の言葉や振る舞いを掬い上げていちいち判断していたのでは、一向に解決に進んでいかない。もちろん制度には改革すべき場所があちらこちらにあるが、まずはそれを置いといて。例えば、女性が和服を着た際の振る舞いについて。祖母や叔母には厳しくそれを言われることがある、普段動作が粗野な私であるが、(それも求められる女性らしさというものに対しての反逆行為の一つとして習慣化してしまった、大変拗れている。)和服を着る際にそのことについて指摘されるのは少々意味が異なる気がする。大袈裟な気もするけれど、それは文化に対する一つのリスペクトであって、自分の動作によってその和服の良さが失われてしまったらそれは大変大変失礼なことと思うので、一つ一つの動作も”女らしく”注意を払うようになる。それが家族でキャンプしている際に、力がある私が力仕事をしようとするところに女は料理を担当しなさいと言われば、なんでそんなことを、と頭に来る。

これは大変初歩的な考えかもしれないけれど、だからこそ逆にだれもがこれらの問題について考えるうちにこの初歩的なステップを忘れてしまうのではないか。

私は日本から逃亡できない。伝統や文化はとても価値がありすぎて見捨てられない。もしそんな私みたいに感じる人たちが日本にたくさんいるのだとすれば、では私たちは伝統を守っていくと同時に公正な性別に対する扱いや考え方を身につけていくべきだと思う。心からより多くの人がこれについて真剣に向き合えることを切に願う。

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