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いつも元気でハッピーが「当たり前」なの? in NY

アメリカという国は、歴史が浅く、もともとは移民によって作られた国だ。
だから、その成り立ちの背後には、根本的に開拓精神がある。
そのせいもあってか、「どんな時にも前向きに行こう」という力強いスローガンのようなものが、多くのアメリカ人のブラッドには脈々と流れている気がする。

そして、そういった傾向は、長年に渡る学校教育や、ビジネスの現場などにも適応され、「常に元気でいること」というのが『何よりも重要な事』である、という一つの観念に従って、日常からそういった振る舞いを好んでする人たちは多い。

そう言う風に振舞うことが「いい事に違いない」とみんなが信じ込んでいるせいもあり、多少嫌なことがあっても、それを抑えて何もなかったかのように笑顔を作る。

例え心の中が大荒れの嵐だったとしても、公的な場では、なかったことにして元気に振る舞う。

そして、自分自身にも、「大したことじゃない」と言い聞かせようとする。それがある種の今時のアメリカ人のスタンダードだ。

そして、そのスタンダードを守るために、メンタルセラピーを普段から普通に受けているみたいな人も多い。

その辺りのことは、こちらの過去記事でも少し触れている。

でも、果たしてそれって本当に「素晴らしいこと」なんだろうか。
悲しい時、苦しい時に、それを表立って感じたり、表現することを「負け犬」みたいに思ってしまうのは、本当に正しいことなんだろうか。

私はそうは思わない。

そして、多くの日本人の人たちは、心が参っている時には静かにしていたい、誰とも会いたくない、元気なフリなんてしたくない、と思うだろう。

それが「自然な感情」だからだ。

しかしながら、これは、都会に住む多くのアメリカ人の人たち(特にエリート教育を受けてきたり、社会的なステータスもあるような人たち)が、一番認めたくないと思う感情なのかもしれない。

自分を存分に表現したり、自己主張してなんぼ、のようなアメリカのカルチャーの中では、「元気がないこと」というのは「負けたも同然」という取り扱いになりかねない。

だから、こういった行き場を失った「元気がない」感情は、個人的な関係の中ではいち早く「怒り」に取って変わったりもする。
とにかく、どんなに形を変えてもいいから「元気がない」ことにだけはなってはいけない、という彼らの信条は、こうして時には激しい怒りや攻撃性となって私たちを驚かせたりもする。

このような近年のアメリカ人の傾向というのは、ある意味もともとの日本人の持つ体質とは真逆のように感じることも少なくない。

日本人は、内向的であることに対しては、そこまではネガテイブなイメージは持っていない民族だと思う。
大人しかったり、控えめだったりすることが、単なるマイナス要因でしかない、というようなものの見方をすることは、それほど一般的ではないと思う。

それは、大人しい、控えめ=何も持っていない、何も考えていない、ということにはならないとみんなが知っているからだ。

でも、平均的なアメリカ人の多くは、この辺りで想像力を使うのがむづかしいらしく、大人しく控えめだと何も考えていない人、とみなされて、カウントされなかったりしてしまうことも少なくない。

ここらへんの違いは、一体どこからくるんだろうと深掘りして考えてみると、やはりこれは、どう考えても「常に元気でいなくてはいけない」というアメリカの教育の中での洗脳のような気がして仕方がないのは、私が日本人だからなんだろうか。

そして、この「元気でなければいけない」という強固な信条にこだわればこだわるほど、心の深い部分にずっと鍵をかけ続けることになる。

結果的にそのことによって、メンタルセラピーを長年やめられない状態になってしまっている人たちはこの国、この街には結構沢山いたりもするようにも思う。

でも、その状態って本当の意味でハッピーなの?って冷静になって考えれば誰でもわかるようなことが、見えなくなってしまっている人の数は意外に少なくないんじゃないかな。

元気に見えること、元気そうに見えることと、本当に元気なのとは違う。

それはもうどうしようもなく当たり前のことで、普通のことなんだけど、その普通を多くのアメリカ人の人たちはここに来てすっかり見失ってしまっているような気もする。

そんな風に考えると、こんな曲を作ってもヒットしてしまっていた過去の時代というのは、この街でも、今とは全く違ったスタンダードの中でみんなが生きていたのかもしれないなとふと思う今日この頃。

















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