仏教の変遷
前回、日本人の宗教観について参考の本の内容をまとめました。
日本の神道・仏教<1>
日本の神道・仏教<2>
日本の神道・仏教<3>
今回は、日本における仏教の変遷ついてまとめました。
①仏教国家創建の功罪
飛鳥時代、中国から伝わった仏教を、氏族間の私的信仰から国家的な宗教へと変えたのが聖徳太子で、そして次のような国家事業を行い、仏教国家の創建へと目指したのが聖武天皇です。
741年 国分寺創建の詔
743年の東大寺大仏建立の詔
諸国に国分寺と国分尼寺を建立して「金光明経」を構宣読誦させることによって国家にふりかかる労災を消除し、大仏によって国家万民に利益を与えようという一大計画です。
こういった国家的計画とその実績は日本史上、唯一のものです。
しかし、このような大事業の結果は、国民の疲弊、国家財政の破綻、寺領の増大、僧侶の政治介入と堕落でした。
764年 恵美押勝の叛乱、766年 僧道鏡が大臣禅師となって勢力をふるい、法王となって帝位をうかがうがやがて失脚など、南都六宗といわれる首都奈良の仏教界はさまざまな面でどうにもならない状態となっていました。
②呪術性と末法思想で仏教変質
794年 桓武天皇は都を京都へ移しました。
京都では、天台宗の最澄と真言宗の空海による新しいタイプの仏教が出現しました。
奈良の仏教は都市仏教だったが、天台宗は比叡山に、真言宗は高野山にこもり、南都六宗とは違った新しい信仰の糧を供給しました。
といっても鎮護国家には変わりなく、むしろさらに強調されました。
しかし、一般の貴族や有力者が仏教に求めたのは、自分や自分の一族の反映や安全を祈念してもらうことで、病気や災害から自分たちを守ってくれる呪術でした。
それに対応したのが密教で、その神秘性や不可解さ、それを裏付けるような深淵な哲理は強く人々を引き付けました。
当時の人々は理解しがたい病気や災難を「物の怪」と考え、一種の強い怪異感で受け止めていました。この怪異感からの解放を加持祈祷に求めていました。
そのため、真言宗も天台宗もしだいに密教の比重が高まり、お互いによりすぐれた呪術性を強調して競い合った。
それにより国家仏教→貴族仏教・閥族仏教への移行が生じました。
天皇や藤原氏一門が盛んに寺を建て、他の貴族もそれに習った。氏寺の出現です。
そして政界から占め出せれた貴族は、栄達の道を仏教界に求めました。
〔有名な氏寺〕
・藤原伊勢人の鞍馬寺
・藤原忠平の法性事
・藤原道長の法成寺
・藤原頼通の平等院
氏寺の僧たちは準貴族化して俗人と変わらなくなり、貴族の求めに応じて法会や加持祈祷を行って土地の寄進を受け、しだいに富裕な土地所有者となり、武力さえ持つようになりました。
③末法思想
キリスト経にも「紀元1000年終末思想」がありましたが、仏教では教理的には釈迦の入滅後1000年が正方、次の1000年が像法で、それが終わると世は「闘諍」の時代となり、仏教の教えは現世では行われなくなるという思想で、日本の場合は1052年でした。
奇妙な事に、この年に香椎宮が焼失、翌年には伊勢大宮司の邸宅が、さらに翌年には
高楊院内裏つづいて京極院内裏が焼失しました。
翌々年には安部頼時の蘭で追討の宣旨が下され前九年の役が始まり、1058年には興福寺が焼失。これは平安時代がいよいよ終わり、「闘諍時代」が来る不吉な予兆と人々には思えました。事実、闘諍を恐れない武士の時代が近づきつつありました。
これと同時に浄土教信仰が力を得てきました。
奈良時代、すでに中国から渡来していましたが、空也や源信によって、あるいは踊念仏という形で、あるいは「厭離穢土、欣求浄土」という単純化した形で民衆の中にしだいに浸透していきました。
④念仏のみ選択した法然
この時代、最も大きな影響を与えたのは法然の浄土宗です。
僧俗に関係なく、身分・職業に関係なく、行為さえ関係なく、「ただ個人の信仰のみによって」人は救済されるという思想。
(阿弥陀仏の名を唱えるだけで極楽浄土に救済される身になる)
個人主義的な宗教思想の発生は西洋より日本の方がはるかに早かったようです。
⑤戒律死守した唯一の僧・明恵
法然の思想に対して対抗する宗教改革が起こり、その代表が華厳宗の栂尾高山寺の明恵でした。う
『催邪輪』を記し、仏典のどこを探しても法然の主張するようなことは記されていないと批判した。
明恵は典型的な高僧というタイプの人で、民衆を直接に教化するより瞑想と隠遁にを愛しましたが、彼を慕う人は多かったそうです。
あくまでブッダを慕い、彼が示した戒律通りに生きることが彼の生き方でした。
同じころ、栄西と道元によって中国から禅宗がもたらされました。
これが広く普及したのは鎌倉時代であり、「只管打坐」の厳しい修行と厳格な戒律は武士の生活規範とよく合致したからと思われます。
⑥室町時代の仏教
室町時代になると、武士は禅宗、農民は真宗、商人は日蓮宗のような形になります。
もっとも数の多い農民の真宗は、法然の弟子、親鸞が師匠の教えをさらに徹底したもので、親鸞は現実こそ救済の場であり、その場に生きることを念仏の目的としました。
この教えに強く反対し、法華経が絶対としたのが日蓮です。
日蓮にとって天台宗以外の宗教は否定せれるべきもので「念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊」がスローガンでした。ただ、彼もブッダを信じ、「南無妙法蓮華経」の七文字を称えるだけでよいとしていました。
以上が、ざっくりとした日本の仏教の変遷です。
【感想】
ヨーロッパのキリスト教のように、日本の仏教も様々に変化し、解釈により枝分かれしていったんですね。現在、日本に国教はないそうなので、個人の思想によるんですね。
私としては、日本の宗教とは文化の一部であり、それ以上ではありませんが、若者のSNSのように、宗教も国境がなくなり、楽しい文化は一緒に楽しむような感覚で、これからもさまざまな企業や人の思惑により、新しくいろんな宗教行事や考え方を受け入れていくんだろうな…と思いました。
日本にはもともと、いろんな宗教を受け入れられる素地があるので!
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