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非日常を経て回帰した日常は、これまでの日常とは質的に異なる | すずめの戸締まり

新海誠監督の最新作、『すずめの戸締まり』観てきました。ややネタバレあります。

自己の内情を、社会全体の出来事へと結びつけるセカイ系の流れは過去作から健在。全体の瑞々しさや切迫感は、数段増している印象でした。

そしてその世界で自分が生活していることが想像できるくらい、作中の日常が自分ごととして「ありそう」でした。だからこそ頷けるし、非日常が映える。ぐいぐい引き込まれました。

ありそう(日常)とありえない(非日常)がここまで自然かつ大胆に織り混ざると、視聴後に「俺の人生ってただ平凡だな」と寂しくなるのも致し方ない。うーん、すごい。

また、強烈な何かを抱えた「内部としての自己」を恢復するためには、時には「外部からの強制的なきっかけ」を要するのだというメッセージも強く感じます。

草太、ダイジン等によって働きかけられ、外部という非日常へ踏み出し、自らの過去についての〈心の穴〉を少しずつ埋めていく。こういった内→外→内の流れが随所に見られました。

地理的にも、九州を半ば家出同然で飛び出し、四国、関西、東京。そして故郷へと戻っていく。内→外→内。土地を巡り、人を知り、経験を積んでいく様がなんとも清々しいなと思いました。

職業・進路という面でも、普通の高校生が閉じ師として日本中を駆け巡り、最後はある職業を目指して日常に戻ってゆく。内→外→内。個人的に冒頭の応急処置のシーンは重要だなと感じました。しがない雑魚社会人である僕にも、何かこうきっかけに当たる出会いが欲しい。

https://youtu.be/F7nQ0VUAOXgより。

また何より深く感じたのは、「非日常を経て回帰した日常は、これまでの日常とは質的に異なる」ということ。

内→外→内における最初と最後は、同じようで決して同じでない。安い言葉を使えば成長とかなのでしょうが、もっと深い。千葉雅也さんのいう「来るべきバカ」のような概念。

人は求める、求めないに関わらず、決定的な瞬間 (Kairos)というものを、生きていく中で何度か経験します。

それは喜ばしいものかもしれないし、目を背けたくなるような事実かもしれない。対象も、仕事や人間関係のようなピンポイントなものもあれば、人生観の全てをひっくり返すようなものもある。

日常が揺るがされる。
これまでもこれからも。大なり小なり。

そうやって何かが変わる。心持ちかもしれないし、姿勢かもしれない。生活自体、ガラッと様変わりすることもある。対象も、人生とか大きな単位だけではない。受験とか仕事とか恋愛、人間関係、それぞれある。

喜ばしい瞬間を仮に求めるなら、どうすればいいのか。きっかけに気づくにはどうするか。外部は訪れるのか。自分から出てゆくのか。その瞬間が、受け入れ難いものである場合は?

揺るがされたその後を、
それからの日常をどう過ごすのか。
畢竟、生きていくのか。

考えることは色々。考えることを促しているようにも思える。映画自体としては楽しんで観るのが1番でしょうけどね。「自分もいっちょ頑張るか」と、無意識に鼓舞された方も多いのではなかろうか。

本作のテーマとも相まって、映画体験として凄まじいものがありました。よかった。

https://youtu.be/8zGz4z3bdzgより。
個人的に明石海峡大橋は思い入れが深く、登場した時には鳥肌ブワ〜でした。


以下、日記。

「好きな食べ物って何ですか?」に対する対外的な解答を見つけた。餃子。ビールがあれば尚。

美術館にてロートレックとミュシャの展示。神羅万象チョコをかお菓子売り場で探し回っていた幼少期を思い出した。何かしらで影響を受けたのではないかな?

コーヒーを土日限定にしてから人生がうまく回っている。平日の眠気は3倍になった。

うまい…

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