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秘密基地

「秘密基地みたいな人になりたいです」

馬鹿みたいな話だが、これは転職希望先の最終面接で口走ったセリフである。おそらくもう色々とおかしくなっていたのだろう。履歴書にも書いた。さも当然のように。論理的であるかのように。落ちて当然やないか。秘密基地は人ではない。

面接はお互いの共通認識を作り上げるゲームだと、頭では分かっている。年齢も立場も違う、初めまして同士の人間が「なるほど」「理解しました」「貴方は弊社に必要な人材ですね or 必要な人材ではありませんね」と理解を深めていくゲーム。

それを「僕は秘密基地のような人になりてぇです」と言って「なるほど分かった採用です」となるはずないのだ。秘密基地は人ではない。

面接は「限られた時間の中で最大限、御社にとって私がお買い得品であることをアピールする場」であり、「私」を表す言葉はなるべく単純明確であるべきなのだ。分かり易いべきなのだ。

「秘密基地のような人って、どういう意味ですか?」という質問に嬉々として答えている時点で、その分だけ私がお買い得である理由を説明する時間がなくなっている。

私にとって秘密基地みたいな人とは「周囲の人々を感化し、やる気にさせ、社会に仕掛けていく気力を与えられる人」であり、「疲れた時に迎え入れ、労ってくれて、明日を頑張る元気をくれる人」であり、「日の当たらぬやも知れぬ努力を一緒に頑張ってくれる人」である。そういう存在のことを指していた。

出撃拠点であり、帰還場所でもあり、爪を研ぐ場所でもある。これを人として体現したかった。「表に好んで出ていかない」という、一歩引いた冷静なニュアンスも好みだった。

何が言いたいかというと、私はその時「秘密基地」という言葉を使いたかった。ただ使いたかったのだ。共通認識もクソもない、自己満足の言葉遊びを、それはそれは大真面目に展開していたのである。


最終的には「御社の在り方は秘密基地のようだ」「私も秘密基地のように存在になりたい」「御社に入れば私は私の理想に近づける」「私は御社に入りたい」という妙なロジックが誕生した。担当してくれた面接官の方々は終始にこやかだったが、内心は困惑の極みであったことだろう。


こういう失敗を私は数えきれないほどしている。現在進行形でしている。

例えば就活生だった頃、「10年後どのような人間になっていたいか」という問いに対して「人生をパレードのように練り歩きたい、出来れば親友たちと」とか言い、例えば入社半年後に行った〈四半期目標〉では、大項目5つをあいうえお作文形式にしたりと、やりたい放題であった。ちなみに後者については上司に爆笑されたのち全訂正となる。

パレードという言葉を使いたかったし、あいうえお作文にしたかった。対話すべき場所で、他者を排除していたのである。

千葉雅也氏の著書『勉強の哲学』に即して言えば、私は「来たるべきバカ」に全くなれておらず、その場のノリに対してひたすら「キモいユーモア」で返していることになる。


このような失態が言語化でき始めた辺りで、自分はおそらくサラリーパーソンとしてはなかなかアウトなのだろうと察しがついてきた。

理解してはいるので、直そうとはする。するものの、自分が使いたい言葉を使っていないので、気持ちが乗ってこない。

この前も私は、作家の佐藤優(敬称略)が大好きなので「出来ないことを理解し、出来るようにします」という際に「知識の欠損を埋める作業を行います」と述べたのだが、「そんな表現ふつう使わへんで」と上司になだめられた。

「気に入った言葉を好きに使う」ことが、存外許されないのが会社であった。もちろん理由は「意思疎通に難が生じるから」であり、それは圧倒的に正しい。

会社に合わせて味のしない言葉を使う生活に慣れるか、先に限界がきて逃亡するか。こればっかりは今の私には想像の及ばない範疇なので、なるようになると信じる他ない。

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