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30年日本史00600【鎌倉前期】畠山重忠の乱 重忠の最期

 元久2(1205)年6月22日。時政は
「謀反人を鎮圧するため集合せよ」
と言って、御家人たちを由比ヶ浜に集め始めました。畠山重保もそこにやってきましたが、三浦義村たちが自分を取り囲むのを見て、初めて
「謀反人とは自分のことだったのか」
と気づきました。重保はやられまいと奮戦しますが、多勢に無勢で、討ち取られてしまいます。
 続いては父の畠山重忠を討てとの命令が下りました。菅谷館にいた重忠のもとに、
「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」
という命令が届いたため、重忠は急ぎ130騎を率いて鎌倉に向けて出発しました。
 その重忠たちを、義時は数万騎を率いて二俣川(横浜市旭区)で待ち受けていました。罠に気づいた重忠は合戦に応じますが、百倍以上の開きのある人数差にいかんともしがたく、愛甲季隆(あいこうすえたか:?~1213)が放った矢を受けて戦死しました。北条方の兵が万を超えていたことから、この地に「万騎ヶ原」という地名が残っています。
 重忠は死に際に、
「私の心が正しければこの矢に枝葉を生じて繁茂させよ」
と願って2本の竹でできた矢を地面に刺しました。その矢が地面に根付き、毎年2本ずつ増え、やがて「さかさ矢竹」と呼ばれる竹になったといいます。
 現在の二俣川古戦場でそのさかさ矢竹を見ることはできませんが、近年になって畠山重忠の事績を記念するため、畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市)に竹が植えられました。
 6月23日。討ち取られた重忠の首を見た義時は落涙し、時政に
「畠山の親類はほとんど他所にいて、戦場には100人程度しか集まりませんでした。謀反の企てがなかった証拠です。讒言によって誅殺されるとは哀れでなりません」
と訴えました。
 この後、吾妻鑑は
「畠山重忠の無実が判明し、讒言した榛谷重朝(はんがやしげとも:?~1205)父子は三浦義村に討たれた」
と記録しています。重忠に讒言したのは牧の方と平賀朝雅の二人のはずなのに、なぜか初めて出てくる榛谷重朝という人物が討たれたのです。榛谷重朝がどのように畠山追討に関わったのか分かりませんが、都合が悪くなるとスケープゴートを用意して殺害するのが北条のお家芸のようです。

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