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30年日本史01050【南北朝中期】武蔵野合戦 太平記と史実

古代史を書いている頃は、「この時代に関する本は全部読んでから書くぞ」というくらい気合を入れていたのですが、戦国時代にさしかかると出版物が多すぎてとても揃えられなくなってきました。取捨選択せねば。

 その後、6千騎で鎌倉を占拠していた新田義興・脇屋義治のもとに、尊氏軍が鎌倉に攻め寄せてくるとの情報が入りました。義興・義治はここで討ち死にしようと述べますが、家臣の松田・川村らが
「私たちの所領である相模川の上流に、河村(神奈川県山北町)といううってつけの場所があります。まずはそこへ避難して、諸国の兵を集めて合戦に備えられてはどうでしょう」
と進言したので、正平7(1352)年3月4日、義興・義治らは6千騎の軍勢を率いて鎌倉から退却していきました。
 以上、6回に渡って太平記が語る武蔵野合戦の詳細を描写してきました。まとめると、
〇正平7(1352)年閏2月15日、新田勢は上野国(群馬県)で挙兵した。
〇尊氏は閏2月16日、鎌倉を出発して新田勢を迎撃しようと準備した。
〇閏2月20日。小手指原で一大決戦があり、両者とも大打撃を受け尊氏が辛勝した。
〇その後、新田勢は鎌倉を攻め、陥落させた。
〇石浜に集結した足利方は、笛吹峠で新田勢と再戦し、勝利した。
〇笛吹峠で勝利した足利軍は大軍に膨れ上がり、鎌倉の新田勢は決戦を避けて鎌倉から河村に逃れた。
といったところでしょうか。
 ところが史実では、武蔵野合戦の実情は大きく異なるようです。
〇閏2月17日、尊氏は鎌倉から武蔵狩野川城に避難した。
〇閏2月18日、ガラ空きになった鎌倉を新田義興・北条時行がいとも簡単に制圧した。
◯閏2月20日。人見原(埼玉県深谷市)と金井原(東京都小金井市)で両軍が衝突し、敗れた新田勢は鎌倉に退いた。
◯閏2月28日。小手指原で新田勢と足利勢の決戦があった。当初は新田方が有利だったが、徐々に逆転され、新田方は鎌倉に戻れず笛吹峠に逃亡した。
◯笛吹峠で再戦が行われ、尊氏は逆転勝利した。新田義宗は越後に、上杉憲顕は信濃に、宗良親王・新田義興・脇屋義治は河村に逃れた。
 微妙に異なりますが、最終的に新田が敗れたという点は共通しています。
 神奈川県山北町には、今も「お峯入り」という伝統行事が残っており、国の重要無形民俗文化財に指定されています。ハリボテの大きな男根を背負ったおかめが歌・太鼓・笛に合わせて踊るもので、宗良親王が着座したことを契機に始まったものといわれています。
 ちなみに現在、武蔵小金井駅の近くに金井原古戦場の碑があります。太平記と一次史料とで大きく異なる歴史が描かれているため、この戦いの実情は不明ですが、足利と新田の激戦が繰り広げられたことは間違いありません。

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