30年日本史00527【鎌倉初期】重衡の最期
さて、一ノ谷の戦いで捕虜となった平重衡は伊豆国で過ごしていましたが、南都の僧兵たちがしきりに
「重衡を引き渡せ」
と要求するので、引き渡されることとなりました。元暦2(1185)年6月、重衡は伊豆から南都に向けて護送されます。
重衡といえば、南都焼き討ちの張本人であり、東大寺・興福寺とも激しい憎悪を持っています。引き渡されればどんな拷問を受けるか分かりません。
重衡の妻は藤原輔子(ふじわらのすけこ)と言って、壇ノ浦の戦いの後は近江日野(滋賀県日野町)に引き籠もって暮らしていました。伊豆から南都に向かう最中、日野を通ったので、重衡は護送の武士に
「私には子がないので思い残すことはないのですが、この近くに妻がおりますので今一度対面して、後の供養のことなどを申し伝えておきたいと思います」
と願い出て、これが許されました。
一行が屋敷の前まで行って輔子を呼んだところ、輔子は
「夢かうつつか」
と涙を流して重衡を招き入れました。重衡は、
「出家して髪を残したいがそれも叶わないから」
と前髪を噛み切って輔子に渡し、形見としました。重衡は最後に、
「縁があればまた来世に会えるだろう」
と言い残して立ち去りました。
輔子は後を追うこともできず、大声で泣き伏し、その声を聞いた重衡は会うべきではなかったかと後悔しました。
6月22日、重衡は東大寺・興福寺の使者に引き渡されました。僧兵たちは
「のこぎり引きにするか、堀首にするか」
などと拷問の方法を話し合っていましたが、老僧がやって来て
「仏に仕える者としてそのような方法は取るべきではない。木津川で普通に斬首すべきだ」
と主張し、そのとおりに決定されました。
6月23日、重衡は木津川の河原に連行されました。近辺の寺から阿弥陀仏を借りてきて、その前で念仏を唱え、斬首されました。
鎌倉で重衡と恋に落ちた千手の前は、信濃の善光寺(長野市)に入って重衡の菩提を弔いましたが、文治4(1188)年4月25日に24歳の若さで死去しました。鎌倉の人々は、嘆きが積み重なって早世したのだろうと噂したといいます。
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