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30年かけて語る日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2024年1月の記事一覧

30年日本史00761【鎌倉末期】九の宮と児島高徳

30年日本史00761【鎌倉末期】九の宮と児島高徳

 この後醍醐天皇の隠岐配流に関連して、「太平記」はいくつかのエピソードを記しています。
 最初に紹介するのは、数えで8歳になる九の宮(後醍醐天皇の第九皇子)が
「父は隠岐に出発するまで、白河に幽閉されているようだが、なぜ会わせてくれないのか」
としつこく尋ねたという話です。
 中御門宣明(なかみかどのぶあき:1302~1365)が
「白河は、能因法師が『都をば 霞とともに たちしかど 秋風ぞ吹く

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30年日本史00760【鎌倉末期】後醍醐天皇の隠岐配流

30年日本史00760【鎌倉末期】後醍醐天皇の隠岐配流

 元弘2/元徳4(1332)年1月17日。六波羅に幽閉中の後醍醐天皇は、殿ノ法印(とののほういん:?~1334)の手引きで脱出しようとしますが、途中で警護の武士に見つかり失敗に終わりました。「殿ノ法印」とは不思議な呼び名ですが、二条家(藤原氏の一つ)の出身で「法印」という僧侶の位階を持つ人物だったため、こう呼ばれたようです。
 後醍醐天皇が反抗的な態度を崩さない中、六波羅探題北方・普恩寺仲時は、鎌

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30年日本史00759【鎌倉末期】万里小路藤房の悲恋

30年日本史00759【鎌倉末期】万里小路藤房の悲恋

 護良親王の逃避行を見てきたところで、後醍醐天皇の動向に目を戻してみましょう。
 後醍醐天皇が六波羅で捕らわれの身となっている間に、幕府は笠置山に立て籠もった者とその協力者たちの処分を決めました。
 まず、笠置山の戦いで活躍した足助重範は斬首となりました。
 京の留守を任されていた万里小路宣房は、二人の息子(藤房・季房)が笠置山に同行したことに連座して捕縛され、牢獄で
「長かれと 何思ひけん 世の

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30年日本史00758【鎌倉末期】護良親王の逃避行 野長瀬兄弟

30年日本史00758【鎌倉末期】護良親王の逃避行 野長瀬兄弟

 中津川に現れた玉置の軍勢は500人ほどでした。すっかり囲まれてしまい、追い詰められた護良親王は、一時は死を覚悟し
「私は自害する。私だと分からないよう、面の皮を剥ぎ、鼻を切って捨てよ」
と側近らに命じましたが、そこに3千人余りの援軍が現れます。援軍の大将は
「我らは紀伊国の住人、野長瀬六郎(のながせろくろう)」
「同じくその弟・野長瀬七郎(のながせしちろう)だ」
と名乗り、玉置の軍勢に攻めかかっ

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30年日本史00757【鎌倉末期】護良親王の逃避行 玉置の庄司

30年日本史00757【鎌倉末期】護良親王の逃避行 玉置の庄司

 護良親王の側近のうち、未だ合流できていなかった村上義光(むらかみよしみつ:?~1333)という信濃の武士がいました。義光は護良親王の後を追っているうちに、芋瀬の庄司と行き会いました。芋瀬の庄司が錦の御旗を持っていることを訝しんだ義光が問いただすと、芋瀬の庄司はその経緯を説明します。
 事情を聞いた義光は、
「恐れ多くも天子様の皇子が朝敵を討ち滅ぼそうとしているところに行き会って、貴様のような下賤

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30年日本史00756【鎌倉末期】護良親王の逃避行 芋瀬の庄司

30年日本史00756【鎌倉末期】護良親王の逃避行 芋瀬の庄司

 尊雲法親王改め護良親王は十津川で再起の機会を窺っていましたが、彼の十津川滞在はやがて熊野別当定遍の知るところとなってしまいます。
 定遍は、今すぐ十津川に攻め込んだとしても勝ち目がないと考え、一計を案じました。あちこちに
「大塔宮を討った者には銭6万貫を与える」
との高札を立てたのです。いかな勤皇の精神にすぐれた十津川の住人たちといえども、こんな大金には目がくらんでしまうかもしれません。
 事実

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30年日本史00755【鎌倉末期】護良親王の逃避行 十津川滞在

30年日本史00755【鎌倉末期】護良親王の逃避行 十津川滞在

 側近数名を連れた尊雲法親王は、山伏に身を変えて熊野(和歌山県新宮市)を目指しますが、その最中、熊野別当の定遍(じょうべん)が後醍醐天皇を裏切り、幕府方についたとの情報が入りました。
 困った一行は行き先を変更することとし、元弘2/元徳4(1332)年3月、十津川(奈良県十津川村)に赴きました。宿を求めて近くの民家に立ち寄ったところ、そこの主人は戸野兵衛(とのひょうえ)と名乗り、
「妻が物怪(もの

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30年日本史00754【鎌倉末期】護良親王の逃避行 餅つかぬ里

30年日本史00754【鎌倉末期】護良親王の逃避行 餅つかぬ里

 後醍醐天皇に続いて楠木正成や桜山茲俊の動向を見て来ましたが、次は後醍醐天皇の三男・尊雲法親王(後の護良親王)の動向を見ていきましょう。尊雲法親王は前述のとおり、連日延暦寺の僧兵を集めて軍事演習を行ったという武闘派の人物です。
 元弘元/元徳3(1331)年9月。笠置山が陥落して後醍醐天皇方の武士たちが次々と捕縛されていく中、尊雲法親王は般若寺(奈良市)に逃れました。このとき、追っ手が般若寺にまで

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30年日本史00753【鎌倉末期】桜山茲俊の決起

30年日本史00753【鎌倉末期】桜山茲俊の決起

 少し時間は遡りますが、元弘元/元徳3(1331)年9月14日、桜山城(広島県福山市)にて桜山茲俊(さくらやまこれとし:?~1332)が決起しました。ここで桜山の動きを見ていきましょう。
 桜山茲俊は、幕府打倒の兵が次々と上がったことを知り、一族を挙げて決起しました。そこへ幕府に不満を持つ地元土着の豪族が次々と集まり、700騎余りとなりました。この反乱軍は備後国(広島県東部)の半分を制圧したといい

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30年日本史00752【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 陥落

30年日本史00752【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 陥落

 幕府方の兵たちは崖をよじ登り、やっとの思いで登り終えて下赤坂城の塀に手をかけようとしたところ、一枚だけに見えた塀は実は二重になっており、外側だけが外れる仕掛けになっていました。四方の塀に取り付いた千人もの幕府方の兵は一斉に崖を落ちて行き、700人以上の死者を出してしまいました。
 三度目の大敗を喫した幕府軍はさすがに慎重になり、次なる作戦を4、5日かけて考えました。思いついたのは、崖を登って塀を

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30年日本史00751【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 楠木軍の奇策

30年日本史00751【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 楠木軍の奇策

 後醍醐天皇周辺の動向を見てきましたが、ここで楠木正成の動向に目を移してみましょう。
 少し時間は遡りますが、元弘元/元徳3(1331)年9月11日、楠木正成は下赤坂城(大阪府千早赤阪村)で挙兵しました。まだ笠置山が陥落する前の出来事です。
 幕府方は大仏貞直を派遣して下赤坂城への攻撃を始めました。さらに鎌倉から笠置攻めのため派遣された軍勢の多くは、笠置が陥落したとの知らせを受けて下赤坂城攻めに参

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30年日本史00750【鎌倉末期】後醍醐天皇捕らわる

30年日本史00750【鎌倉末期】後醍醐天皇捕らわる

 有王山の麓で休息していた後醍醐天皇一行は、山狩りをしていた幕府方の武士・深須五郎(みすごろう)に見つかってしまいます。後醍醐天皇は
「そなたが分別あるものならば、天子の寵恩をいただいて家の繁栄を志すがよいぞ」
と述べ、深須に見逃してもらうよう働きかけました。深須はかなり迷ったようですが、自分が捕縛せずともどうせ他の者が見つけるに違いなく、そうなると見逃した罪を問われないとも限りません。深須は天皇

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30年日本史00749【鎌倉末期】笠置陥落

30年日本史00749【鎌倉末期】笠置陥落

 元弘元/元徳3(1331)年9月28日。笠置山を包囲していた幕府軍の中に、備中国の武士・陶山義高(すやまよしたか)がいました。陶山は一族を集め、
「数日攻めても落とせないこの城を、応援が来る前に我が一族だけで攻め落としてみせようぞ」
と述べ、組織的な攻撃が行われる前に抜け駆けして、功績を独り占めしようと息巻いていました。
 陶山一族は夜遅く、風雨に紛れて天皇方の陣地に忍び込みました。護衛の武士に

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30年日本史00748【鎌倉末期】北朝初代光厳天皇即位*

30年日本史00748【鎌倉末期】北朝初代光厳天皇即位*

 元弘元/元徳3(1331)年9月5日。鎌倉では、後醍醐天皇の倒幕計画が予想以上に大規模であったことを知り、さらに大軍を送り込むことに決しました。
 大将軍として選ばれたのは、
・大仏貞直(おさらぎさだなお:?~1333)
・金沢貞冬(かねさわさだふゆ:?~1333)
・名越時見(なごえときみ)
らの北条一族。そして有力御家人からは足利高氏が選ばれました。
 室町幕府初代将軍の足利尊氏がここで初登

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