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30年日本史00759【鎌倉末期】万里小路藤房の悲恋

 護良親王の逃避行を見てきたところで、後醍醐天皇の動向に目を戻してみましょう。
 後醍醐天皇が六波羅で捕らわれの身となっている間に、幕府は笠置山に立て籠もった者とその協力者たちの処分を決めました。
 まず、笠置山の戦いで活躍した足助重範は斬首となりました。
 京の留守を任されていた万里小路宣房は、二人の息子(藤房・季房)が笠置山に同行したことに連座して捕縛され、牢獄で
「長かれと 何思ひけん 世の中の 憂きを見するは 命なりけり」
と世の哀れを嘆く歌を詠んでいましたが、反乱に積極的に関与したわけではないため、まもなく釈放されて光厳天皇のもとに出仕するよう命じられました。
 後醍醐天皇に扮して比叡山に向かった花山院師賢は、下総国に配流となりました。千葉貞胤(ちばさだたね:1292~1351)に身柄を預けられ、そのまま寂しく生涯を終えました。最期の地には師賢を祭神とする小御門神社(千葉県成田市)が建てられています。
 後醍醐天皇が捕縛されたとき随行していた万里小路兄弟の弟・季房は、常陸国(茨城県)に配流となり、御家人・長沼駿河守(ながぬまするがのかみ)という人物に身柄を預けられました。
 兄の藤房もまた、常陸国藤沢城(茨城県土浦市)に配流となり、御家人の小田治久(おだはるひさ:1300~1352)に身柄を預けられました。
 流罪となった藤房について、「太平記」には妻・左衛門佐局(さえもんすけのつぼね)との悲恋物語が描かれています。
 藤房は、かつて御所で舞が催されたとき琵琶を弾いていた左衛門佐局という女房に一目惚れして、3年の片思いの末に結ばれたことがありました。藤房は常陸国への出発に当たって、鬢の毛を少し切って
「黒髪の 乱れん世まで ながらへば これをいまはの 形見とも見よ」
と書き送りました。生き永らえることができるかどうか分からない乱世の中で、妻に形見の髪の毛を渡したわけです。
 左衛門佐局は
「書き置きし 君が玉章(たまずさ) 身に添へて 後の世までの 形見とやせん」
と返歌を送り、この髪の毛を受け取ったのですが、そのまま大井川(京都の桂川の上流をこう呼びます)に入水してしまいます。
 配流後、弟の季房は長沼駿河守の手によって殺害されましたが、一方兄の藤房は小田治久に殺害されることなく常陸国で幕府崩壊後まで生き延び、再び京に戻れることとなるのです。それが分かっていれば左衛門佐局は死なずに済んだのでしょうが、残念です。
 なお、常陸国で藤房は頭を丸め、その際に切った髪を埋めた場所が「髪塔塚」(茨城県土浦市)として今に残されています。

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