マガジンのカバー画像

30年かけて語る日本史(毎日投稿)

970
2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
運営しているクリエイター

2023年11月の記事一覧

30年日本史00699【鎌倉中期】竹崎季長と蒙古襲来絵詞

30年日本史00699【鎌倉中期】竹崎季長と蒙古襲来絵詞

 元寇について唯一残っている絵画史料が「蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)」です。肥後の御家人・竹崎季長が自らの活躍を絵師に書かせたもので、国宝に指定されています。
 竹崎季長は、寛元4(1246)年に肥後国竹崎郷(熊本県宇城市)に産まれました。庶子であり、親から受け継ぐ所領を持たなかった季長は、戦で活躍して大規模な所領を得ようと思い立ちます。
 文永の役では、赤坂の戦いで敗走した元軍が麁原

もっとみる
30年日本史00698【鎌倉中期】神風信仰

30年日本史00698【鎌倉中期】神風信仰

 さて、御家人たちが九州で戦っている頃、京や鎌倉では皇族・公家・僧たちが必死に敵国調伏の祈願を行っていました。
 文永の役においては、文永11(1274)年11月2日に亀山上皇が祈願を行ったと記録されていますが、10月20日夜には元軍は撤退していたわけで、亀山上皇が祈願している頃には既に戦闘が終わっていたのです。九州と京の往来に時間がかかる時代ですから、やむを得ないでしょう。
 弘安の役においては

もっとみる
30年日本史00697【鎌倉中期】弘安の役 鷹島掃討戦

30年日本史00697【鎌倉中期】弘安の役 鷹島掃討戦

 鷹島に見捨てられた元軍の兵たちの絶望感はいかほどであったか、想像に余りありますが、彼らは互いに励ましあって、木を伐採して船を建造することで、どうにかして祖国に帰ろうと言って伐採作業を始めました。
 ところが、この兵たちを見逃す鎌倉武士ではありません。弘安4(1281)年閏7月7日、日本軍は鷹島への総攻撃を開始しました。といっても、鷹島の元軍は台風被害から命からがら陸に上がることができた者たちで、

もっとみる
30年日本史00696【鎌倉中期】弘安の役 台風襲来

30年日本史00696【鎌倉中期】弘安の役 台風襲来

 日本との激戦から2日後の弘安4(1281)年7月30日夜。鷹島沖に停泊していた元の大船団を台風が襲います。
 この時期に九州に台風が来るのは珍しいことではありませんが、蒙古人、高麗人、江南人からなる元軍にはそうした知識はなかったのでしょうか。
 海が荒れ狂う中、元の船団は操船不能となり、船と船を鎖で連結させていたせいで船は互いに衝突し、次々と沈没していきました。特に江南で造られた船は、日本侵攻の

もっとみる
30年日本史00695【鎌倉中期】弘安の役 壱岐/鷹島の戦い

30年日本史00695【鎌倉中期】弘安の役 壱岐/鷹島の戦い

 弘安4(1281)年6月29日。壱岐を占拠する東路軍に対し、薩摩(鹿児島県)の御家人・島津長久(しまづながひさ)や肥前(佐賀県)の御家人・龍造寺家清(りゅうぞうじいえきよ)らが数万の軍勢で総攻撃を開始しました。司令官は82歳の老躯をおして戦った少弐資能です。少弐資能の子の経資(つねすけ:1229~1292)や、その子の資時(すけとき:1263~1281)らも参加していました。
 壱岐の戦いは大乱

もっとみる
30年日本史00694【鎌倉中期】弘安の役 志賀島の戦い

30年日本史00694【鎌倉中期】弘安の役 志賀島の戦い

 弘安4(1281)年6月6日。博多湾からの上陸を断念した東路軍は、志賀島に上陸してここを占領してしまいます。志賀島は本土から砂洲でつながった陸地で、「漢委奴国王」の金印が発見されたことでも有名な場所ですね(00050回参照)。
 あまりの大軍団のため御家人たちは攻撃を躊躇していましたが、その日の夜、唐津の御家人・草野経永(くさのつねなが)は、少人数で小舟を使って夜襲をかけました。東路軍の船団のい

もっとみる
30年日本史00693【鎌倉中期】弘安の役 元寇防塁の効果

30年日本史00693【鎌倉中期】弘安の役 元寇防塁の効果

 さて、いよいよ二度目の蒙古襲来・弘安の役が始まります。文永の役では3万人程度だった元の軍勢は、今回は最初に来襲した東路軍約5万人と、後から合流した江南軍約10万人、合わせて約15万人の大軍勢となりました。東路軍は朝鮮半島から出発し、江南軍は江南(中国南部)からそれぞれ出発し、九州沖で待ち合わせる計画でした。
 弘安4(1281)年5月3日、東征都元帥・忻都(ヒンドゥ)率いる東路軍が朝鮮半島の合浦

もっとみる
30年日本史00692【鎌倉中期】持明院統と大覚寺統 兄弟の交流

30年日本史00692【鎌倉中期】持明院統と大覚寺統 兄弟の交流

 この機会に、少し時代を先取りして、持明院統と大覚寺統それぞれの天皇をまとめておきましょう。
・第89代後深草(ごふかくさ): 在位1246~1259(持明院統)
・第90代亀山(かめやま): 在位1259~1274(大覚寺統)
・第91代後宇多(ごうだ): 在位1274~1287(大覚寺統)
・第92代伏見(ふしみ): 在位1287~1298(持明院統)
・第93代後伏見(ごふしみ): 在位12

もっとみる
30年日本史00691【鎌倉中期】持明院統と大覚寺統 両統迭立の始まり

30年日本史00691【鎌倉中期】持明院統と大覚寺統 両統迭立の始まり

 文永の役の話が終わり、続いて弘安の役について述べるべきなのですが、この2つの戦役の間の出来事として、持明院統と大覚寺統の対立が始まったことについて述べなければなりません。
 後嵯峨法皇の死後、長男・後深草上皇と次男・亀山上皇の対立が深まったことは既に述べました。
 亀山上皇の子・後宇多天皇が即位するに及び、後深草上皇は悲嘆に暮れていました。このままでは皇位は弟の家系に奪われ、自らの子孫に何も残し

もっとみる
30年日本史00690【鎌倉中期】杜世忠の斬首

30年日本史00690【鎌倉中期】杜世忠の斬首

 文永の役の後、元は再度の使節として杜世忠(とせいちゅう:1242~1275)を送り込んで来ました。いつもは博多経由で大宰府にやって来るのに、今回彼らが接岸したのは長門国(山口県)でした。恨みを買っているであろう九州の人間と接触するのを避けたかったのかもしれません。
 杜世忠と日本側とでどういう交渉がなされたのか分かりませんが、杜世忠一行は鎌倉までやって来ることとなりました。これまで、元の使節に対

もっとみる
30年日本史00689【鎌倉中期】文永の役 謎の撤退

30年日本史00689【鎌倉中期】文永の役 謎の撤退

 「八幡愚童訓」が事実以上に鎌倉武士たちの苦戦を誇張して描いているとしたら、それはなぜなのか。それは「八幡神」の活躍を描くためなのです。
 というのも、この「八幡愚童訓」はこの後、
「筥崎八幡宮(はこざきはちまんぐう:福岡市東区)の八幡神が、宮を焼かれたことに怒って元軍に矢を射かけ、それに驚いた元軍は一夜で退却した」
との荒唐無稽なエピソードを記載しているのです。元軍を退却に追い込んだのは、鎌倉武

もっとみる
30年日本史00688【鎌倉中期】文永の役 八幡愚童訓

30年日本史00688【鎌倉中期】文永の役 八幡愚童訓

 元寇の詳細を記した文献に、「八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)」という書物があります。この書物は、史実を記した戦闘実録のように見えるところと、荒唐無稽な宗教説話とが入り混じった不思議な文献です。
 この文献が語るエピソードをいくつか紹介しましょう。
1「元軍が博多に上陸しようとする際、少弐資能の孫が矢合わせに鏑矢を射たところ、元軍はこの意味が分からずどっと笑った」
 鏑矢というのは、戦を始めるとき

もっとみる
30年日本史00687【鎌倉中期】文永の役 博多の戦い

30年日本史00687【鎌倉中期】文永の役 博多の戦い

 文永11(1274)年10月20日の朝、元軍は博多の早良郡(福岡市早良区)に上陸し、そこから約3km東にある赤坂(福岡市中央区)を占領し、陣を布きました。
 これを迎え討つ日本軍の総大将は、少弐資能の三男・景資(かげすけ:1246~1285)です。赤坂は馬にとって足場の悪い地なので、景資は赤坂を襲撃するのではなく、敵を息浜(おきのはま:福岡市西区)で迎撃しようと待ち構えていました。
 ところが景

もっとみる
30年日本史00686【鎌倉中期】文永の役 対馬・壱岐の戦い

30年日本史00686【鎌倉中期】文永の役 対馬・壱岐の戦い

 フビライの命を受けた元・高麗連合軍は、文永11(1274)年10月3日、朝鮮半島の合浦(現在の釜山)を出発しました。
 総司令官はモンゴル人の忽敦(クドゥン)で、副司令官は漢人の劉復亨(りゅうふくこう:?~1283)と高麗人の洪茶丘(こうちゃきゅう:1244~1291)の2名です。この3人が主力軍2万人程度を率いていました。また、主力軍とは別に、高麗人の金方慶(きんほうけい:1212~1300)

もっとみる