30年日本史00698【鎌倉中期】神風信仰
さて、御家人たちが九州で戦っている頃、京や鎌倉では皇族・公家・僧たちが必死に敵国調伏の祈願を行っていました。
文永の役においては、文永11(1274)年11月2日に亀山上皇が祈願を行ったと記録されていますが、10月20日夜には元軍は撤退していたわけで、亀山上皇が祈願している頃には既に戦闘が終わっていたのです。九州と京の往来に時間がかかる時代ですから、やむを得ないでしょう。
弘安の役においては、亀山上皇は伊勢神宮に願文を提出しました。そこには
「私の命と引き換えに国を救ってください」
と書かれており、これを知った母・西園寺姞子は
「滅多なことを言わないでください」
とたしなめたといいます。母にとっては息子の身が大事だったのでしょうが、それも人情として理解できます。
さて、文永の役・弘安の役ともに風が勝利を導いたということで、神社や寺社は
「我々の祈祷が神風を吹かせたのである」
として、幕府に対して恩賞を求めてきました。
「神風」という言葉の初出は、亀山上皇が伊勢神宮に派遣した公家・二条為氏(にじょうためうじ:1222~1286)が台風による大勝利を聞いて
「勅として 祈るしるしの 神風に 寄せ来る浪は かつくだけつつ」
と京に書き送ったとの記録のようで、この頃から暴風雨・台風を「神風」として日本古来の神が吹かせたものだと捉えられていたことが分かります。
明治時代になると、
「日本は神によって守られている神国である」
といった観念が出来上がり、明治37(1904)年には福岡市東区に亀山上皇像と日蓮像が建立されました。亀山上皇と日蓮が敵国調伏を祈ったおかげで神風が吹いたというのです。実際には日蓮は、幕府が念仏宗や禅宗による祈願を行わせたにもかかわらず神風が吹いてしまったので、「予言が外れた」と言ってそれ以降元寇について言及しなくなってしまったのですが。
太平洋戦争の終盤、昭和19(1944)年には敗北必至の戦況の中で、「かくて神風は吹く」という元寇を描いた映画が公開されました。神風という非科学的な力に頼るあまり、冷静な判断を失っているように思われます。元寇における神風伝説が日本の降伏を遅らせてしまった可能性はありますね。
これまで述べてきたとおり、実際には台風が来る前から日本軍は優勢だったわけですから、台風など来なかった方がその後の日本にとってよかったのかもしれません。
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