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30年日本史(毎日投稿)

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2022年元日から始めた連載。「人間って面白いな」と思えるような、登場人物の個性に着目した日本史講座を目指しています。受験対策になるかどうかは微妙ですが、旅行がより楽しくなるはず…
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2023年4月の記事一覧

30年日本史00485【平安末期】水島/福隆寺縄手/室山の戦い

30年日本史00485【平安末期】水島/福隆寺縄手/室山の戦い

 平家を追って西下していた木曽義仲は、寿永2(1183)年閏10月1日、備中水島(岡山県倉敷市)で平知盛・重衡と戦闘となり、敗北しました。山岳戦では無敵を誇る義仲も海上では弱いようです。
 このとき、義仲軍の中には倶利伽羅峠の戦いで捕虜となっていた平家方の妹尾兼康という武将がいました。兼康は
「命を救っていただいたお礼に、平家と戦いたい」
と述べ、義仲らはこれを信用して釈放しました。
 ところが妹

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30年日本史00484【平安末期】寿永二年十月宣旨

30年日本史00484【平安末期】寿永二年十月宣旨

 寿永2(1183)年2月の野木宮合戦(00475回参照)において、志田義広の反乱は早期に鎮圧されましたが、この反乱に加わった豪族・足利俊綱はまだ無傷でいました。
 頼朝は足利俊綱を討つべく追討軍を送り出しましたが、その追討軍が到着する前の7月9日に、俊綱は家人であった桐生六郎(きりゅうろくろう:?~1183)に裏切られ、殺害されました。
 桐生六郎は俊綱の首を差し出し、頼朝に対して褒美を要求しま

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30年日本史00483【平安末期】82代後鳥羽天皇

30年日本史00483【平安末期】82代後鳥羽天皇

 後白河法皇から平家を追討せよとの宣旨をいただいた義仲でしたが、京の住民や公家のみならず、肝心の後白河法皇からの信任も失ってしまうこととなります。その原因は、寿永2(1183)年8月14日、義仲が以仁王の子・北陸宮の即位を主張したことでした。
 これまでも、藤原道長や平清盛といった実力者が天皇の譲位に何かと条件を付けたり勝手な人選をしてしまったりすることはありました。しかしそれは、官職も位階も得て

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30年日本史00482【平安末期】義仲入京

30年日本史00482【平安末期】義仲入京

 平家の都落ちから1週間後の寿永2(1183)年7月28日。比叡山側(滋賀県側)から義仲が、宇治橋側(奈良県側)から行家が、それぞれ入京してきました。
 鞍馬寺に隠れていた後白河法皇は両名を召し出し、「平家が無断で三種の神器を持ち去った。取り返せ」と言って追討の宣旨を下しました。こうして平家は朝敵となりました。
 このように、都から落ち延びるときは「治天の君」を連れて行かなければ朝敵となってしまい

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30年日本史00481【平安末期】平家都落ち 忠度と頼盛

30年日本史00481【平安末期】平家都落ち 忠度と頼盛

 続いては、平家都落ちに当たっての、忠度のエピソードを紹介しましょう。
 清盛の弟にあたる平忠度(たいらのただのり:1144~1184)は、和歌に傾倒していましたが、なかなか歌人として名が売れていませんでした。忠度は都落ちに当たって、歌の師である藤原俊成(ふじわらのとしなり:1114~1204)を訪ね、百余首の書き付けを託しました。つまり、「自ら詠んだ歌をいつか後世に発表してほしい」と訴えたのです

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30年日本史00480【平安末期】平家都落ち 資盛と経正

30年日本史00480【平安末期】平家都落ち 資盛と経正

 平家都落ちのエピソードを紹介しているところです。今回は資盛と経正を取り上げます。
 重盛の次男・資盛は、愛する建礼門院右京大夫(けんれいもんいんうきょうだいぶ:1157~?)に今生の別れを告げることとなりました。
 平資盛といえば、
「摂政・松殿基房の車と行き違った際、下馬の礼をしなかった」
という殿下乗合事件の項で取り上げましたね。あのときは9歳だった資盛も、今や22歳で立派な若武者です。
 

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30年日本史00479【平安末期】平家都落ち 維盛

30年日本史00479【平安末期】平家都落ち 維盛

 二度も壊滅的打撃を受けた平家軍は、もはや首都防衛戦に勝利することが期待できなくなっていました。
 寿永2(1183)7月20日。清盛の三男・宗盛と四男・知盛(とももり:1152~1185)は、都落ちについて相談を始めます。つまり首都で戦うのではなく、一旦西に逃げてから戦おうというわけです。
 二人は、
「都を落ちる際には、後白河法皇と安徳天皇を連れ出すべき」
との意見で一致を見ました。法皇と天皇

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30年日本史00478【平安末期】篠原の戦い

30年日本史00478【平安末期】篠原の戦い

 倶利伽羅峠の戦いで壊滅的な打撃を受けた平家軍に、更なる追撃が加わります。
 寿永2(1183)年6月1日。敗走する平維盛らが篠原(石川県加賀市)に差し掛かったところで、これを追撃しようとする義仲軍が追いつきました。そのまま戦闘となり、義仲軍が圧勝しました。
 このとき、平家軍の中で殿(しんがり)という最も危険な任務を務めたのが老将・斉藤実盛でした。実盛は味方が全員逃げた後も、一人とどまって戦い続

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30年日本史00477【平安末期】倶利伽羅峠の戦い

30年日本史00477【平安末期】倶利伽羅峠の戦い

 寿永2(1183)年5月9日。先遣隊として今井兼平を越中に送り込んでいた木曽義仲は、いよいよ自ら本隊を引き連れて六動寺(富山県射水市)にやって来ました。翌10日には般若野の今井兼平軍と合流し、5月11日朝に倶利伽羅峠(石川県津幡町)へ向かって進軍を始めました。
 一方、平家は軍を二手に分け、維盛率いる本隊が砺波山(富山県砺波市)へ、清盛の七男・知度(とものり:?~1183)率いる別動隊が志保山(

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30年日本史00476【平安末期】火打城の戦いと般若野の戦い

30年日本史00476【平安末期】火打城の戦いと般若野の戦い

 義仲・頼朝関係の悪化により、寿永2(1183)年3月に頼朝は義仲を追討する方針を示したのですが、一方の義仲は、ここで頼朝と対立することは不利だと思ったのでしょう。嫡子・義高(よしたか:1173?~1184)を頼朝の長女・大姫の婿に出し、頼朝と和議を結ぶこととしました。
 このとき、義高は10歳で、大姫は5歳です。政略結婚にしてもあまりに早すぎる気がしますね。
 3月25日には義高は鎌倉に向けて出

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30年日本史00475【平安末期】野木宮合戦

30年日本史00475【平安末期】野木宮合戦

 勝利を収めた義仲はそのまま越後へと北上し、越後国府(新潟県上越市)を制圧しました。
 国府というのはつまり地方政府ですから、ここを取れば越後を征服したようなものです。
 さらに義仲は、北陸に逃れていた以仁王の長男・北陸宮(ほくりくのみや:1165~1230)と合流しました。
 北陸宮という人物は、本名すらも伝わっておらず謎の多い人物です。
 以仁王が決起したときまだ15歳だった北陸宮は、戦乱を避

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30年日本史00474【平安末期】市原合戦と横田河原の戦い

30年日本史00474【平安末期】市原合戦と横田河原の戦い

 木曽義仲が決起後、最初に戦ったのが治承4(1180)年9月7日の市原合戦(長野県長野市)です。以下にその経緯を述べていきましょう。
 平家方に与する信濃の豪族・笠原頼直(かさはらよりなお)は、義仲が決起したと聞き、その討伐を志しました。笠原頼直は義仲の本拠地である木曽谷を直接攻撃しようとして、信濃を出発しようとしますが、それを察知した源氏方の村山義直(むらやまよしなお)が、笠原軍の進軍を防ぐべく

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30年日本史00473【平安末期】木曽義仲登場

30年日本史00473【平安末期】木曽義仲登場

 頼朝と仲違いした行家は、木曽谷へと向かいました。そこで源氏一族の木曽義仲(きそよしなか:1154~1184)を頼ることになります。
 木曽義仲(源義仲とも呼ばれます)は、源義賢(みなもとのよしかた:?~1155)の次男に当たります。その源義賢とは、源為義の次男に当たります。源為義とは頼朝の祖父ですから、要するに木曽義仲と源頼朝とは従兄弟に当たるということです。
 なぜ木曽の山奥に源氏の貴種がいた

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30年日本史00472【平安末期】墨俣川の戦い

30年日本史00472【平安末期】墨俣川の戦い

 清盛の死から間もなくの治承5(1181)年閏2月15日。平家は、平重衡を大将とする追討軍を尾張(愛知県)に派遣しました。
 それに対し、源行家は墨俣川東岸(岐阜県大垣市)に布陣し、平家を待ち構えました。行家といえば、山伏に変装して東国を回り以仁王の令旨を伝えた人物ですが、彼は頼朝の配下には入らず、独立した勢力として尾張国で兵を集めていたわけです。
 3月10日。両軍は墨俣川を挟んで対峙しました。

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