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賭けとしてのパフェ作り実践と,近代教育のシステムと。

※前置きの部分が長いです。タイトルだけを見てこの記事を開いた方は,下の目次から「「賭け」としてのパフェ作り,または料理」の項まで飛ぶこともできます。


お菓子作りへの序章

私は,どうやら甘いもの好きらしい。
「どうやら」,と書いたのは,実家に暮らしていて外部の他者と交わる機会が少ない時にはあまり意識されていなかったため。
しかし大学に進学し,多くの他者と時間を共にする機会が増えるにつれ,自身がものすごく頻繁に甘いものを摂取しているという事実に気がついた。

スーパーで食材を買ったついでには必ずスイーツコーナーを覗くし,家には常に手に取ることのでいる位置にお菓子が置いてある。パーティーパックとかを買っても2日程度でなくなるのがだいたい。ふらっとカフェに立ち寄ったときには食事メニューよりもスイーツメニューをまず見る。昼食を摂るためにカフェに入ったはずがいつのまにかパフェだけを食べて退店していたこともしばしばある。

そんなかんじで,かなり頻繁に,そしてときに無意識のうちに,甘いものを摂取している。のだが,東京に出てきて1ヶ月ほどが経ったころ,思い始めたのだ。

東京のスイーツ,あんまり美味しくなくね?

 と。

もちろんこの言い方には補足が必要である。少し言葉を補って言うのであれば,「テレビで話題になったり行列ができているお店に行ってみても,それほど大きな感動が得られない,しかも時間を費やして並んで高い料金を払ってまで食べた甲斐があるかどうかと問えばもっとそう思える」,ということ。

つまり,費やしたコストに対して得られるリターンが小さいのではないのか? ということ。
そしてたどり着いた答えのひとつが,自分自身でスイーツを作る,というものだった。

世の中便利になったもので,Youtubeとかブログとかを覗けば世界の料理上手たちが残したレシピを参考にすることができる。しかも料理作りとは違って(初歩的な)お菓子作りの場合,火力の制御や包丁さばきなど特別なスキルが必要とされない場合が多い。基本的には用意した材料を混ぜていれば,なんとなく形になってしまう。
そうしていろいろと手を出してみた中で,一つのかたちになったのがこれ。

左側が車麩のフレンチトースト,右側は上からカットした桃,お麩のラスク,ティラミス。もうここまでいけば,「おうちでカフェ気分」なるものを演出するくらいのレベルには到達していたことだろう。

パフェ作りの始まり

さらに私は,いわゆる「映え」を意識するようになっていく。
そして「映え」るお菓子といえば,パフェということになろう。Instagramには美しい層が形成されたパフェが多数投稿されている。
そして作ってみたのがこれ。


グラスの外側にキウイの断面を配置し,上部には円形にカット・並べたキウイと生クリーム,さくらんぼで高さを出す。これだけでもう巷にある「映えパフェ」のレベルには達していただろう。
ここまでくれば,後は同じ要領でいけば他のフルーツでもパフェ作りができるようになっていく。
作ってみたものを抜け出せば,だいたい次のようなもの。


ぶどうとさくらんぼのパフェ。クリームソーダを添えて。
ぶどうとキウイのパフェ
さつまいものパフェ。上に載っているのは芋きんとんとさつまいもチップス。

自分で言うのもアレだが,この時点でもはやお店を出してもある程度の客数を得ることができるくらいのレベルには達していたと思っている。
いろいろな人に食べてもらって,常に絶賛の声をもらっていたこともあって。

パフェ作りに伴う壁

しかしここで私は,ひとつ大きな疑問にぶち当たることになる。
それはつまり,

パフェって味覚的な美味しさよりも,視覚的な美しさのほうが重視されていないか?

というもの。パフェに限らないあらゆる料理が,単純な味のみではなく盛り付けにも注意を払い,レストランであればその料理を最大限楽しむことができる空間設計にも手を出すというのはよくある話。しかしパフェの場合,視覚的な心地よさが追求されるがあまり,肝心な味が後回しにされている面があるのではないか? と思ったのだ。

「パフェ」という言葉の語源が,英語での「完璧」を意味するperfectをさらに遡るフランス語parfaitにあるというのは有名な話。
しかし実際には「完璧」の名にそぐわないくらいに,胃もたれするほどの過剰な量の生クリームが含まれていたり,食べにくい位置・場所に素材が配置されていたり,味や食感が単調だったりする。
そのような意味でのパフェの「完璧じゃなさ」は,以前批評文を投稿した映画作品『浜辺にて』で描かれていた通り。

上に写真をあげたパフェについて言っても,生クリームが多くなりすぎないようにするにはどのような配置にすればよいのかを試行錯誤したが,結局は生クリームの使用が層を形成することと高さを出すことに最も効果的であると発見するのみだった(それと同時に,よくパフェに入れられて「カサ増し」のヘイトを受けがちなコーンフレークがどれほど使い勝手がよいのかを認識することにもなった。実際自分で使ってみると,あれほど手間暇をかけずに入れることができ,他の素材の味を邪魔することなく,パフェに高さを出すことができる素材は,なかなかない。そして多くなりがちな生クリームとの相性も良い)。

そのような思いに駆られることによって,私のパフェ作り上達への道は若干の休載期間に入ることになるのであった(もっともパフェ作りの達人を目指すわけでも,出店を目指すわけでもないのだが。本投稿の序盤に書いたように,家にいながらにして甘味を食べることにこそ,私のパフェ作りへの原初的なモチベーションはある)。

各店のパフェ偵察を経たうえで得た,ひとつの発見

そこで世にある,単に「映え」のみを狙ったわけではない,一流の料理人によるパフェを探してみるフェイズに入ることになった。その中で衝撃を受けたのが,東京都の小川町にて経営されている,イタリアンバル アゾートというお店のパフェ。

このお店ではイタリアン方面のシェフが月替わりでパフェを披露してくれるのだ。そこに行ってみたのが,2022年の11月。その時には紅玉という品種のりんごを主にしたパフェが提供されていた。

グラスの上に載っているタルトは,「パフェ本体を食べ進めながら少しずつ齧りながらどうぞ」という説明がなされた。
パフェの設計図も一緒に提供されるのも面白い

このパフェによって,私のそれまでのパフェ常識が大きく崩されることとなった。味についてはもちろんなのだが,いちばん大事なのはそこではない。私がもっとも注目したのは,パフェのその姿である。
インスタによく出てくる「映え」を意識したような,フルーツの断面を見せるような姿はそこには見られない。そしてまた,きれいに整えられた層があるわけでもない。むしろその見た目は,整えられたという言葉からはほど遠い,ゴチャッとした印象さえ与える。
しかしそのパフェの姿は不思議と目を惹き,見ている私を飽きさせることがない。
また一緒に提供される設計図によってどのような素材が使われているのかを確認することができるため,自分が今どの部分を食べているのか迷子になることもない。

このパフェを経験したことによって私は,これまでにパフェに対して抱いていた「完璧じゃなさ」について,一つの結論を得ることができたような気がした。
外側からの視線が意識され,はっきりと層が分けられたパフェは,たしかに見た目がきれいである。しかしその見た目は,ともすれば食べる側にとって躊躇の気持ちさえもたせることになる。よくある言葉で言えば,「食べるのがもったいない」というものだ。
つまり見た目がきれいすぎるあまりに,その見た目を崩すことを躊躇しながら食べなくてはならない。それが雑念となってしまった場合,味に集中できなくなってしまうのではないか,と思ったのだ。

思い返せば私が(たぶん)生まれてはじめて食べたファミレスのパフェに対しても,同じような気持ちを抱いていたような気がする。
ファミレスの(に限らず,だいたいの店で提供される)パフェは基本的に,いちばん上に生のフルーツが載っていて,その下に生クリームが挟まり,アイスがジェラートが重ねられ,少し味付けがされたフルーツ,ヨーグルト,ジャムが続き,最下層にはコーンフレークが収められている。
これをはじめて食べたときの私は,上のそうからお行儀よく順番に食べていたのだ。そうすると最後には,コーンフレークのみが残り,口の中の水分を持っていかれることになる。その上の層のヨーグルトと混ぜればその失敗は潰されたはずなのに,作り手によって整えられた層をぐちゃぐちゃにかき混ぜるという考えは,そのときの私には思いつかなかったのだ。
このときの私は明らかに,パフェの見た目の美しさに魅了されてしまったことにより,その味を最大限楽しむような食べ方ができていたかったということになる。

このことを思い出したうえで先のアゾートのパフェを見るとどうだろうか。他の多くのパフェのような,整然と整えられた層の重なりは,そこにはない。むしろゴチャッとした印象を受ける。
しかしそうなっていることによって,せいぜい「どこから食べようか?」というワクワクが生まれる程度で,「食べるのがもったいない」というような雑念は生まれ得ない。
そのことによって食べる側の自由が生まれることになる。つまり,層がきれいに整えられていれば上から順番に食べていくのがマナーだと思ってしまうが,アゾートのパフェの場合は同じ高さの部分に多数の素材が混在している。そのため食べる側は,自分の好きなように,好きな順番に,好きな部分から食べ進めていくことができるのだ。こうなることによって,他の多くのパフェでありがちな「同じ素材を食べ続けることによって生まれる飽き」が生まれることも少なくなる。また,雑多な部分を共に口に運ぶことによって,それぞれの素材のマリアージュを口の中で実現することも可能になる。
そうして夢中で食べ進めていくうちに,いつの間にかグラスの底にたどり着いている,というわけである。

新たに始まるパフェ実践

このような感じで私の中のパフェ観が更新されたとあれば,あとは実践あるのみである。
いろいろと作ってみて,ひとつの完成形にたどり着いたと思ったのはこれ。

先のパフェに感化されたことが意識的・無意識的に関係したのか,奇しくも種となる素材は同じくりんごの紅玉。
アゾートに倣って設計図も描いてみた。

設計図を描くことによって,実際に作る前に頭の中で味の足し算の演習ができるようになる。層の順番はこれでいいのか,実際に組み立ててみた際に高さはちゃんと出るのか,ということを考えられるようになる。

さらに直近で作り出したパフェが次のもの。

素材を描いてみると,こんな感じ。

いちごのグラノーラは入れるのを忘れて他の素材で十分に高さが出たので省いてある。

で,こういうものを作って他人に食べてもらうと,これまでに作ってきた単に「映え」を意識したパフェの場合との違いが如実に感じられるのが面白い。

先にあげたようなキウイの断面を見せるパフェの場合,食べる側はそのキウイをできるだけ傷つけないようにするようになり,その部分をほぼそのまま食べていたのである。作り手としては,他の生クリームやスポンジケーキの部分と一緒に食べた方が美味しいのになーと思っていたにもかかわらず。

しかし上にあげた二つのパフェの場合,それぞれの部分ごとの相性を確かめるようにして匙が進められていく。一番上のセミドライパインをそのすぐ下のヨーグルトと一緒に食べる人もいれば,皿の上に取っておいて途中のパンケーキ部分と一緒に食べる人もいる。
人によって組み合わせの仕方が変わっていくのも面白い。

「賭け」としてのパフェ作り,または料理

さて,ここまできてやっと,この投稿のタイトルにつけた「賭け」という言葉を回収することとしたい。
言ってしまえばパフェ作りというのは(さらには料理全般に言えることのようにも思えるが),作り手側から食べる側に対して行われる一種の「賭け」である。
作り手はどの素材をどのような順番で,どのような組み合わせや食べ方で食べれば一番美味しく感じられるかを考えながらレシピを考案する。
しかし実際には食べる側がその考えに忠実に従うことは少ない(例えば家系ラーメンの店には「当店のおすすめ」のような形で食べ方が指示してあることが多いが,多くの人が--そして熱狂的なファンであればあるほど--自分なりの食べ方を考案することだろう。そしてそのような食べ方は往々にして,指示された食べ方よりも--「自分だけの」という付加価値があることにもよって--美味しく感じられやすい)。

そこで作り手が取る方法としては,大きく二つの手法があろう。
一つには,食べる順番や方法を細かく指定して,食べる側にそれを遵守してもらう方法である。
たとえばフランス料理の高級なコース料理や和食の料亭の場合は特にそれが顕著で,作り手側が意図した順番に料理が提供され,食べ合わせや道具の使い方までが細かく指定されることとなる。そしてそれは食事の空間における一つのルールであり,それを違反することは「ご法度」となる。
このようなルールがあることによって,ルールさえ守れば食べる側は安心して物を口に運ぶことができるが,彼らの自由な食べ方は尊重されているとは言い違い。

もう一つの方法は,食べる側へとルールやマナーをまったく任せてしまうものである。
こうすれば食べる側はどのような束縛も感じることなく,自由に食事を楽しむことができる。しかしそこでは同時に,作り手が意図していた食べ合わせが無視されてしまう危険性が発生してしまう。

上にあげたパフェは,このような料理制作のジレンマに対するひとつの回答として見ることができないだろうか。
つまり,グラスという上から食べるしかない空間に収めることによって,また設計図を共に提供することによって,作り手が持っている最低限の意図は伝えつつ,しかしそれぞれの層の境界線があいまいにされることによって,食べる側の自由な食べ方も引き出すことができる,という手法である。
食べる側のある程度の自由は保障しながらも,まったく任せきりではないことによって,最低限の味の保障もなされる,ということである。

「賭け」としての近代教育システム

さて,プロフィール欄に書いている通り,私の専門は教育学である。
実は上の節で書いたような話の進め方は,私が教育学とくに教育哲学の領域から得た知見が元になっている。

元ネタの出所としては,
山名淳「〈学校=共同体〉に穴を穿つ」-アジール論からみた「新教育」の学校-」『近代教育フォーラム』21巻,2012年,pp. 115-129.
同『都市とアーキテクチャの教育思想』勁草書房,2021年.

実は教育というものは,上に書いたような一種の「賭け」を行ってきた。

一般的には教育とは,子どもや学習者を「制御」「制限」するものと考えられがちである。
多くの人にとっては,校則によって縛られ,細かい時間割に従って生活し,先生の顔色を伺って暮らし,度重なって課される宿題を消化してきた毎日が思い出されることだろう。
そういう意味では教育を「制御」「制限」というイメージで捉えることは,あながち間違っていない。

しかし実際には教育がコントロール可能なものは,ものすごく小さな領域に限られている。
上にあげた例のみを見てみても,校則に対して意識的に反抗してみたり,または校則の範囲内でできる限りの遊びを見出してみたり,課された宿題をすっぽかしてみたり,というようなことをやってみたことがある人は多いどころか,すべての人が一度はそういうことをしているのではないだろうか。
また教師や大人に対して表向きには従順な態度を取っているように見せておきながら,心の内や仲間内では反抗している,ということもよくあることである。

実は教育というもの,とくに近代化を経た後の教育というものは,このような子ども・学習者に対して一定の「遊び」「余地」を,意識的に残すようにしてきた。

もし教育がほんとうに「制御」「制限」のみを求めていたとすれば,そうすることも可能だったはずである。どこかの刑務所にあるように,鉄格子に子どもたちを入れ,食事や排泄までの生活リズムを教師が指示し,規則を破った者には物理的・精神的制裁を与える,という手法を取れば,教師の意図を学校などよりも圧倒的な効率で子どもに伝えることできるようになるはずである。

しかし近代の教育は,基本的にはそのようなことを避けてきた。
第一には、子どもに罰を与えることは権利侵害にあたるという倫理的な問題から。
しかしそのことを抜きにしても、教育は、自身の「教育的」観点から、子どもに「遊び」「余地」を残してきた。

刑務所のような完全に制御された空間においては,子どもたちは教師の意図を汲み取るばかりである。そのような状況では,教師の考えていることが何度も再生産されるばかりで,それを超え出るような価値が生まれることがない。

そこで教育は,一種の「賭け」に出ることになる。
大人や教師の意図を越え出るような価値を生み出す時間や空間を,意図的に自身のシステムに取り込むのである。
たとえばプレイルームやトイレ,部活動などの空間,そして近年では「アクティブ・ラーニング」や「自律的・主体的な学び」などとして言い表されることが多いような,子どもの自主性が重視される時間・空間である。
このような時間・空間があることによって,教師が一方的な教授として与えるだけでは生まれ得なかった教育的価値を生み出そうとする。
しかしそのような時間・空間は,ともすれば無秩序なものに陥る危険性をも内包しており,いじめや学級崩壊の種も生み出しうる。そこでは、教師による一方的な講義よりも少ない価値しか生み出されないだろう。
そのために,そのような行為は教育哲学の世界ではしばしば「賭け」と表される。

それでも,それらはあくまで学校の範囲内で行われるものであるため,そこで起きた事件や事故の責任は教師側にあることになり,また学校の敷地内であれば不審者に出会うことも(基本的には)ない。つまりその時間・空間で行われる活動では,子どもたちの自由や自主性が尊重されながら,その「自由」とはあくまで学校・教師の保護・制御の範囲内でしかない。しかしそのことによってこそ,近代教育は可能になる。

賭けとしてのパフェ作り実践と,近代教育のシステムと

このように書いてみれば,私が最近やっているパフェ作りに内包された試みと,近代教育に含まれる哲学との共通点が少しばかり明らかになったはずである。
とはいえ,だからなんなのだ,ということになるが,そのような問いに対する現時点での応答を示して終わりにしておきたい。

人間の本質が「遊ぶ人(ホモ・ルーデンス)」であるということが本当であれば,人はどのようなものに対しても遊びや自由の余地を生み出して生活していくことだろう。
しかしまったくもって人間自身に「自由」を任せてしまったら,そこに起こるのはまったくの無秩序か,または力を持つ者のみに限られた楽園でしかないだろう。
そこで一種の権力なり権威からなる秩序が必要になり,その秩序と遊びとの関連の中にこそ、真の「自由」が生まれるということにはならないか。

そして私のパフェ作り実践は,食--もっといえば食を含めた生活全体--における人々の「自由」がどの範囲まで広がることが可能かを探ることも,ひとつの目的にしている。
パフェ作りに「実践」という言葉を当てている理由も,大きくはここにある。
これは教育の哲学にも,食の哲学にも,感性の哲学(美学)にも通ずるものである。

そのために,私のパフェ作りはまだ終わることがない。
もっとも先に書いたように,出店を目指しているわけではないのだが。

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