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パフェがもつ過剰さ・欠陥-今泉力哉監督『窓辺にて』批評-

実は私,定期的にパフェを自作するくらいに甘いもの好き、パフェ好きなんですよね。
それでSNSを漂っていたところ、パフェ界隈(そんな界隈あるんか)で話題になっていたパフェ映画(そんなジャンルあるんか)があったので散歩ついでに観てきた。

今泉力哉監督『窓辺にて』

基本的には一対一での会話・対話の長回しがひたすらに流されることで構成された会話劇。それだけに、ひとつひとつのセリフやシーンを捉えていかなければ全体像は掴みにくい。
逆に、他者である三人目がいるシーンやカットが多用されるシーンでは何かが匂わせられている、または笑いどころであるということが感じられる点はわかりやすくもある。

主人公の茂巳(稲垣吾郎)は元小説家で現在はライター(=人の気持ちを描くのに長けているとされる人種)であるのに、または、だからこそ、周囲の人間の気持ちがわからない、共感できないという皮肉が本筋の話。
おそらくこの部分は意外にも、表現者や批評に関わっている者への共感をこそ呼ぶものかと思う。逆にそうでない者は、劇中でゆきの(志田未来)が見せたような「この気持ちがわからないなんてありえない!」というような気持ちを茂巳に抱くのが大半かと。
ただし終盤にいくにつれて登場人物それぞれの思いのすれ違いが描かれ、または「ズレた」人たちの言動が描かれ、劇中の「わかりあえなさ」は多くの人が共有できるようになっていく。

そして最終的に主人公の茂巳が人の気持ちがわかるようになって終わり、という筋書きではもちろんない。多少は人の気持ちがわかるようにはなるのだが、やはり彼は世間から少しズレたままに終幕を迎える。それを象徴するかのように、茂巳は最後、給仕に「フルーツパフェを一つ」注文する。この行為のもつ意味は、ぜひ一人ひとりが本作品を通して見てから考えてみてほしい。

「parfait(完璧)」という名を冠するはずのパフェには、胃もたれをもたらすほどの生クリームや味のまとまりのなさなど過剰さや欠陥がある。それと同じように、私たちもどこかわかりあえなさを抱えて生きていくしかない。しかしそこで終わりでなく、一部でも似た感情があるからこそ私たちは生きていくことができる、というところが今のところの解釈。

主演の稲垣吾郎はもちろん、女子高生役を演じた玉城ティナの演技と空気感がよかった。玉城ティナ、あんな演技もできたんだ。その他俳優もハマり役。⁡⁡
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⁡「パフェ映画」と聞いて想像していたほどはパフェの存在感はなかった。しかしそれでもこれが「パフェ映画」かと問われればもちろんパフェ映画。パフェ映画ってなんだ。

これをきっかけに、創作パフェの投稿もしていこうかな。ただ、noteという媒体でどういうふうにパフェを見せるかは考えものだが。

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