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良い悪いは判定できない、知った気にならない

人生が波に乗ってるとき、落ち込んでいる時がある。辛いことばっかり、みたいに感じるときもある。でもそれもいろんなことが、あとになってみたら違う意味になってたりする。

偶然電車に乗り遅れたら、いつも乗ってる電車が事故を起こした、そういう人もいる。あるいは、だれかと喧嘩したからこそ、誰かと出会うことができたりもする。いつもうるさくて困る人が離れていくと、静かすぎて寂しくなってしまうことだってある。仕事がうまく行っていると思ったら、周りの人が無理していたから、というときもある。良かれと思って、助けたいと思ってやったことが、かえってより悪い結果をもたらすこともある。他人のために率先してやった仕事が、逆に他の人の存在価値を奪ってしまうこともある。頑張り過ぎが、かえって周りの不安や心配を煽ることもある。

私達が目にしている光景に対して、思っていることは合っていないこともたくさんある。いい人そうに見えても悪いことをしていたり、悪そうだと思っている人がいい人そうだったり。
いいことをしたと思ったら違ったり、悪いことをしたと思ってもかえって良かったり。

世界で起きている悪いように聞こえるニュースも、裏ではいいこと、必要な動きが起きているかもしれない。悪党を退治しなければ、と思ってたら、他の本当の悪党の思うツボかもしれない。

誰だって、全ての物事は知れないし、全ての人の心の中を覗けない。他の人の心の中さえ覗けない。
私達が思っている以上に、私達が近くしている情報は、世界のほんの一欠片でしか無い。
だからこそ、誰も「断定」なんてできないはず。確かにそれぞれが思ったことは、それぞれが「思った」という「事実」である。その感情は大事なものだけど、他のことは「わからない」というのが事実である。それを認めないといけない。
ただ、社会で生きていくうえで、「断定」を求められることが多い。断定したほうが便利だし、共有できるからだ。断定することで物事はその断定した言葉に「固まる」。生きた流動的な現象現実からは多少離れたものとなる。
科学もそうだ。計測した数値や証拠というものに「固める」ことで、事実を言語化してきた営みである。その裏で想定されていた理論が覆ったことはこれまで何度もあるだろう。いかに精密に世界を計測できるのか、その世界にまだ制限はないだろう。
こうして「断定」を求められすぎてしまうと、事実でないことも事実であるように、自分や他の人に言い聞かせてしまうことがある。子どもたちにも、最初は「断定」しながら教えていかなければいけないが、「断定」されたものを「疑う」力を身に着けないといけない。自分に対しても、「断定」し、実際とは違うことを言い聞かせてしまってないか、適度に振り返る力が、今後必要なんじゃないかと思う。
眼の前で起きていることを受け止め、現実の目の当たりにしている現象や、周りの人の声、自分の「断定」を重ね合わせ、よくよく吟味してから、自分たちの考えや、人生の岐路を選んで行かなければいけない、そして、きっとこうあるべきだろうと、仮説を立てていかなければいけないと思う。どれだけ勉強や実践、経験を積み重ねても、謙虚であるべき姿勢は必要かと思う。

この姿勢を油断しないように、大事にしたい、という自分への言い聞かせでした。

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