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食べることは生きることだから

3ヶ月前から、あたしは就学前の子どもたちと里山で一緒に生活することを生業にし始めた。

地方移住して保育教諭として勤務し始めた言ったほうが分かりやすいのかもしれないが、「教諭」と呼ばれるのも、「勤務している」というのも、なんだか今の生活実態に合わないので、そう表現することにした。

何しろ、あたしと子どもたちとの関係は、”教えるー教えられる” の関係にはないし、本当に有難いことに ”勤務している”というには自由過ぎる。とはいえ、遊んでいるというのもしっくりこない。その場で起きることに、必要に応じて説明責任は果たしたいし、より良い「大きい人」になるべく自分を磨くぞと襟を正すためにも、やっぱり生業だと表現したい。(今後への期待も込めて)

さて、そこで一緒に暮らしている5歳児の人に、食事を人と一緒にとらないと決めている人がいる。彼女は自分で決めた場所で自分で決めた人と(もしくは一人で)、自分の決めたものを食べる。

さらりと書いたが、こういうニーズに自然に応えている園はそんなにない。あくまであたしの肌感覚だが、以前勤めていた都市部の一般的で典型的な園では、正直あっさりとはいかないと思う。

それは、場所の確保やそれを見守る人などのハード面やシステム面というより、食を取り囲む大人の価値観とぶつかってしまうからだ。

もし彼女が発達障害や社交不安障害の診断を受けていたら、一般園でも彼女の「みんなと一緒の場では食べたくない(食べられない)」という要望を受け入れられるハードルはぐんと下がる。でも、抱えているしんどさが同じでも、名前がついていないと、とたんに難しくなったりする。

子どもの場合だと、そのしんどさを「なんか恥ずかしい」「うるさいから」「なんかいや」とか知っている言葉でなんとか伝えようとしたり、食べないという表現や手段としかとれなかったりする。必ずしも言葉と実態が合わないことも、言葉が日によって変わることも、喋り始めて数年なんだから当然だ。でも、そうなると大人の腰は重くなる。人によってはこう言う。「ただのワガママかもしれない。」

日本の教育現場においてはなぜか、「これはワガママではない」という公的な証明と手続きが、目の前の日々の子どもより重視される。これはとっても不自然で良くない習慣だ。

高所恐怖症の人で、わざわざ病院で正式に診断を受けている人は少ないと思う。でも、高所恐怖症の人が高いところに行かないのをワガママだと思う人はまずいない。(別にワガママでもいい。) ちなみにあたしは閉暗所恐怖症の気があるが、暗くて狭い場所になぜ人より強い恐怖心を感じるのかについて、大人になっても言葉で合理的な説明が出来ない。あたしたちは気を付けないと、大人には決してしないことを、容易く子どもにしてしまうことがある。

抱えるしんどさが「食べること」となると、状況はますますややこしくなりがちだ。運動が苦手とか絵を描くのが苦手とかなら、それはそれとして受け止められても、「食べるのが苦手」となると、なんとか克服させねばと大きな努力が払われて、それが子どもを追い込んでしまう事が多々ある。

食べることは生きることだから、大人たちは出来れば好き嫌いをせず、そこそこ何でも食べて健康に成長して欲しいと願う。だから、たくさんの量を一定時間の間に食べられる子が良い子で、食事を残すことは生産者や調理者への感謝に欠けると、なんの疑いも持たずに思い込んでしまうことがある。

食べることは生きることだから、人にはそれぞれの人生で身につけてきた食の価値観がある。食の価値観の違いから離婚する人だってざらにいる程、食の価値観は変えることが難しい。難しいからこそ、自分の正義を振りかざしてしまう。

でも、食べることは生きることだから、多様であって当然なのだ。多様な味に触れることの大切さや、美味しいと思えるものがたくさんある人生の素敵さは、決して否定しないけれど、寝ることや出すことと同じで、何はともより安心できる環境じゃないと、出来っこない。

そして、食べることは生きることだから、今をより心地よく、未来をより心地よくする自分の食のあり方を、自由に探して決められるのが良いよね。

そんな風に思っている。

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