ルソー『社会契約論』を読む(5)
前回の記事では、以下の2点が明らかにされました。
今回は、この二つをふまえてさらに明らかになることを、まずはじめに紹介することから始めます。
一般意志は常に正しい
しかし、ここにはある問題があります。その問題とは、たとえ一般意志が常に正しいとしても、人民の議決が常に同じように公正であるということにはならない、という問題です。なぜ、このような矛盾が起こるのでしょうか。それは、「人はつねに自分の幸福を望むが、かならずしもつねに、何が幸福であるかがわかっているわけではないから」(p.135)です。
そこで、一般意志へと人民を導くために「立法者」という存在が設定されることになるのですが・・・、それはまた次回以降に解説するとしましょう。
全体意志と一般意志
さて、全体意志と一般意志は、まったく異なるものだ、と言います。
すべての人の利益が一致する(=一般意志の実現)ためには、各人の利益の対立(=特殊意志の存在)が欠かせない。ルソーはこう述べます。
一般意志を表明する条件
一般意志が十分に表明されるには、おのおのの市民が自分だけにしたがって意見を述べることが必要である、とルソーはさらに続けます。つまり、国家の内部に部分的な結社は存在しないことが、一般意志を表明する際の条件なのです。しかし実際は、結社が存在しない、ということはあり得そうにありません。そこで、ルソーは、
と言います。
主権の限界
主権とは、第二篇第一章の定義によれば、一般意志の行使のことに他なりません。この一般意志によって導かれた社会契約は、各人が自己の能力、財産、自由を政治体に譲り渡すので、政治体にその全構成員に対する絶対的な力を与えることになります。
したがって、市民は、主権者が求めれば直ちに国家に対してなしうるかぎりの奉仕を行なわなければならない、ということになります。なんだか、これだけを聞くと独裁制のようにも聞こえますが、主権者は、「共同体にとって不必要ないかなる束縛をも臣民に課することはできない。いや、そう望むことさえできない」(p.137)のです。それは、一般意志はつねに正しく、すべての人はたえず各人の幸福を願うからです。
ではなぜ、一般意志はつねに正しく、しかも、なぜ、すべての人はたえず各人の幸福を願うのでしょうか。
です。また、これによって、
が明らかになります。しかし、一般意志には限界があります。
かつて、アテナイの人民が、その首長たちを任命あるいは罷免し、ある者には名誉を与え、他の者には刑罰を科したとき、人民はもはや厳密な意味での一般意志を持っていなかったのです。つまり、「人民は、もはや主権者としてではなく、行政官(=為政者)として行為した」(p.138)わけです。
つまり、
ここに、一般意志の行使(主権)の限界が露呈するわけです。主権者は、ある臣民に、他の臣民よりも重い負担を負わせる権利を持ちません。それは、主権者は特殊的な問題に対する権限を持たないからです。
「社会契約は、市民のあいだに平等を確立するので、市民はすべて同一の権利を享有すべき」(p.139)です。したがって、「社会契約の性質からして、主権のすべての行為、すなわち一般意志のすべての真正な行為は、全市民に等しく義務を負わせ、また恩恵を与え」(p.139)るのです。だからこそ、そうした社会契約に反する「個別の」命令を一般意志の行為として正当化することはできないのです。
次回予告
次回は、第二篇第五章以降を読んでいきます。
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本文中に〔 〕で示した脚注を、以下に列挙します。
〔注1〕『ルソー全集 第五巻』作田啓一訳、白水社、1979年、134頁。以下、本記事において、特に断りなく頁数だけが示されている場合は、ここにあげた白水社版『ルソー全集 第五巻』の頁数を示しているものとします。
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