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それは初盆から始まった
魔物が帰ってきていたような1週間でした。
私は、知らない間に数人の人に迷惑をかけつづけていたようです。それを知ると自分も気分が悪いし、もちろん私のせいで迷惑をこうむった人はもっと嫌な思いをしているんでしょう。
すべては初盆から締め出されたことから始まりました。あんまり長い期間
“私が人を嫌いになること、あるいは人が人を嫌いになること、あるいは人が人間を嫌いになること”について考え続けていたの
“圧倒的”が“圧倒的”である理由
嫌い考察の8回目をやってみようと思っています。今日は、徹底的に「嫌いな人」について自分の最奥に問うてみようかとおもっています。
この世の中に圧倒的に嫌いな人が3人います。それはもう圧倒的で、「圧をかけて」「倒す」ほどの勢いで(そういう用例であっているのか分かりませんが)、私はその人たちのことを嫌いです。
でも、嫌い嫌い言っていても話が先に進みませんから、嫌いだということを明記して、では、何故私
好きに理由は要らない、嫌いには必要。
好きになるのには理由は要らない。
嫌い考察、6回目になりました。今日考えたのは、好きになることには理由は要らないけれど、嫌いになったらその理由を人に説明しなくてはいけないこと。
これは、善意と悪意に置き換えても同じことが言えるかもしれません。
街中で缶のごみをそっと拾ってゴミ箱に捨てても
「何故、あなたはそんなことを?」
と聞かれたら、す、と笑っていればいい。
しかし、通りすがりの女性に自
“好きか嫌いか”は言葉の問題。
今、まさに始めて会う人たちに対する諸事情あって避けられない接待から帰ってきたところです。
疲れました。気を使ったこともなんですが、あちこち移動したこととか料理のしたくをしたこととか、たちっぱなしの時間が長かったせいか、とにかく疲れました。
でも、体力的に疲れるのは当たり前として自分の中で不思議なのは、とても感じのいい人たち(今この世界を生き抜く中で感じがいいということは人生の宝みたいなものです
“無理やり好きになる”弊害。
“無理やり誰かを好きになること”は間違いなくその人に弊害をもたらします。
「何故私は人を嫌いになるのか(あるいは何故人は人を嫌いになるのか、さらにいうと『何故人は人間を嫌いになるのか』」についての考察4回目です。
今まで3度このテーマで自分のイメージをまとめようとしてみましたが、やはり納得がいきません。なので、“嫌悪”という単語を杖にしていけるところまで進んでみようかと思います。
今日何を書
嫌悪。能動態と受動態のはざまで。
「私は何故人を嫌いになるのか」
についての考察3日目に入りました。昨日は
「人を嫌いになるのも生きていることの表現」というような記事になったのですが
そのときは「ああそうか」と自分に納得していたのですが、今になって「それでいいのかな」と思ってしまったので、やはりもう一度考えてみようと思いました。
嫌われるのは仕方がない。それは、思考や志向のぶつかり合いだから、性格は人間ひとりにいっこ必ずは
“嫌われること”の本当の意味。
[夫の実家の法事に来なくてもいいと言われた]
と言うと、親切だったり聡明だったりする幾人かの友人は、軒並み心配してくれます。私は、願ったりかなったりだからいいんですが、彼らはむしろ私の夫のことを心配してくれる、ありがたい方々です(ただ、知り合いの配偶者と言うだけで心配をくれるのは、私の基準ではありがたいことです)。
昨日からの続きで、[人を嫌いになること]について考えてみようと思います。
私
“嫌いになること”の強烈さ。
私は、(もしかすると人は)
なんてたやすく人を嫌いになるんだろうなと今日考えています。どうして私は人を簡単に嫌いになるのか。人を嫌いになると疲労します。嫌悪感と言うのはなんて強烈なんだろう、という今日の考察です。
30年以上生きてきましたから好きな人もいます。少ないですが、います。何故少なくなってしまったのかは、その相手が死んでしまったり、事情があって連絡がつかなくなってしまったり、単純に時間