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“無理やり好きになる”弊害。

“無理やり誰かを好きになること”は間違いなくその人に弊害をもたらします。

「何故私は人を嫌いになるのか(あるいは何故人は人を嫌いになるのか、さらにいうと『何故人は人間を嫌いになるのか』」についての考察4回目です。

今まで3度このテーマで自分のイメージをまとめようとしてみましたが、やはり納得がいきません。なので、“嫌悪”という単語を杖にしていけるところまで進んでみようかと思います。

今日何を書くのかと迷ってふと頭に浮かびました。「無理やり人を好きになることに対するストレスを、無視している人って多いんじゃないか?」

原因はいろいろあって一概には言えない、育った環境かもしれないし通った学校かもしれない。誠実に生まれついた人がいるのかもしれない、なんとなく押し付けられているものかもしれない。

みんな仲良くしないといけないんだ。

無意識にそう考えているから、人を嫌いになることよりも、無理やりにでも好きになろうとする、自分を丸め込んで、その人のことを嫌いじゃないと思おうとする。そういう人は多いんじゃないかと思うのです。

それを突き詰める前にじゃあ反対はと考えると。手当たりしだい人を嫌いになる人間は、はっきり言って迷惑です。理由が明確だったらいいけど(明確な理由をもって手当たりしだい人を嫌っていると言うことはパーソナリティに必ず問題があるだろうが)、それもなしに些細なトラブルであっという間に人を嫌いになる人間のことを、我がままというのではと前に考えました。

我がままな人間が身近にいると、誰だって迷惑です。

でも、我がままと自己表現の間にはすごく危うくてもろい橋が架かっています。その志向が正しければ自己表現になるし、間違っていれば我がままになります。そしてそれを決めるのは自分じゃなくて他人です。

多くの賢明は人は、できるだけ他人に迷惑を掛けないようにするので、わがままになるまいとします。それは人間の美徳と言えるものです。

美徳→ いいこと →いいことをすると褒めてもらえる

こういう、子どものときのシンプルな考え方がずっと今でも続いていて

迷惑を掛けないように嫌いな人でも好きになろうとしていないか

ものすごく嫌いな人なのに、誰かに気を使ったり自分が窮地に立たされないように無理やり好きになろうとしていないか。

私は、幸い状況に許されたので、夫の親とは絶縁できたのですが、仕事が同じとかどうしても面倒をみなくてはいけないとかで、ものすごく嫌いだけど嫌いになるわけにはいかない状況も多いでしょう。

でもそれってとても怖いです。

我慢。これってとても怖いです。無理やり何かをすること、させられるよりも自分からすることってとても怖いと思います。洪水で水門にひびが入っていくようです。いつかとんでもない流れが興る。

自分を守るために人を嫌いにならなくてはいけない状況もないだろうか。

今日は、「人を嫌いになること」についてそういう風に考えました。

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