好きに理由は要らない、嫌いには必要。

好きになるのには理由は要らない。

嫌い考察、6回目になりました。今日考えたのは、好きになることには理由は要らないけれど、嫌いになったらその理由を人に説明しなくてはいけないこと。

これは、善意と悪意に置き換えても同じことが言えるかもしれません。

街中で缶のごみをそっと拾ってゴミ箱に捨てても
「何故、あなたはそんなことを?」
と聞かれたら、す、と笑っていればいい。

しかし、通りすがりの女性に自らの飲みかけのコーヒーをぶちまけた場合、
「どうしてそんなことをしたんだ」
と問いかけられたら、ふ、と笑っているだけでは済まされない。善意は不問だけど悪意は要説明。これは何でだろうと思います。

1つの結論として、(ずっと考えていることではありますが)人、もの、ことを嫌いになることが悪いことだと思われている。悪いことはなくさなくてはならない、戦争は、いじめは、人殺しは悪いことだからなくさなくてはならない。そのためには、原因を知って解決策を見つけなくてはならない。

解決、解決、解決。

悪意根絶、問題解決。私は死にたくない、殺されたくない、この世から悪意を消し去りたい、だから理由を知りたい。理由が分かればこれからどうしていけばいいのかが分かる。

悪意は恐怖です。

いつ、誰の悪意が自分に向かうのかと思うと、それはとんでもない恐怖です。怖いのは嫌だ、嫌だから、逃げたい、自分を守りたい。

こんな心理が悪意を厭うものの根底を流れている気がします。嫌悪も同じようなものじゃないでしょうか。悪いことだから。良くないことだから。なくさなくてはいけないからだから、“あなたが私を嫌いな理由を教えて”となってくる。

しかし考えてみると理由もなく嫌いになる状況というのは、あまりないのかもしれません。昨日の考察で私は人を言語で嫌いになると書きました。嫌いになるのには理由があるのです。少なくとも、注視されるのです。

嫌われるのは、恐怖です。

特に自分の好きな人、尊敬している人から嫌われることは恐怖です(逆はどうでもいいと思うけど、それはまた別の機会に)。パートナーや仕事仲間から嫌われるのは恐怖です。自分の生活が成り立たなくなるかもしれない。だから理由を知って、そして解決に当てたいと思う。なんとかして嫌われないようにしたいと思う。

と、思いながら、私が嫌われたくないとおもう一方で、相手は私を嫌いなことに、理由なんてないんじゃないだろうかと考えます。

私があなたを嫌うときには理由があります。それは言語が好きでないからです。
でも、あなたが私を嫌う理由が分からない。ひょっとすると私の言語が嫌われているのかもしれない。だったらそういってほしい、でも、あなたはきっとそう言ってくれない。

あなたが私を好きだと言ってくれるときに、理由は要らない。なのに、嫌いな理由ははっきりさせたい。

嫌悪は恐怖、嫌悪は悪意。悪意は恐怖。私は(あるいは人は、あるいは人間は)弱い弱い存在なのかもしれない。今日考えたことです。

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