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“嫌われること”の本当の意味。

[夫の実家の法事に来なくてもいいと言われた]

と言うと、親切だったり聡明だったりする幾人かの友人は、軒並み心配してくれます。私は、願ったりかなったりだからいいんですが、彼らはむしろ私の夫のことを心配してくれる、ありがたい方々です(ただ、知り合いの配偶者と言うだけで心配をくれるのは、私の基準ではありがたいことです)。

昨日からの続きで、[人を嫌いになること]について考えてみようと思います。


私は夫の親が嫌いで、だから法事に出るなといわれるとむしろほっとしてうれしかったのですが、よく考えてみたら。

法事に呼ばれないことに何も感じない私ももちろん問題だ。

夫の親だから兄弟だからというのは何の意味もないことだと私は考えます。

入っている魂とか経験とか、下手をすると思い出さえまったくすれ違っている人たちなのに、ただ肉体的に血がつながっているだけで何か特別に思わなくてはいけないというのは、前時代的だと思って、嫌です。

尊敬できる人と盛り上がれる話題でいつも楽しい時間を共有したい。そう思うから、私は夫と居るのです。それ以外の人は、親戚なんて、まるで関係ないのです。

でも、今日は、[嫌われているのは私も悪いのだ、もちろん]と言うことについて考えなくてはいけません。

私が悪い。

嫌いな相手から嫌われると言うのは、ある意味意思が叶っているので私はほっとします。でも、本当に私が悪いのか?

私の場合は私が悪いのです。姑が嫌いだ嫌いだと言うことを態度に出していますから。あからさまですから。感じ悪いんです、私は。

でも、人と場合によっては、何の落ち度もないのに人から嫌われる人もいるんじゃないかと思うんです。いじめなんてそれの顕著なものでしょう。

(いじめについても、いつか時間を掛けて考えてみたいテーマです)

人が人を嫌いになることの本当の意味はなんなんだろう。本当は誰が悪いんだろう。あるいは、誰も悪くないのかもしれない。

ただ自分の興味や関心の赴くままに生きていると、ぶつかり合う人が必然的に出てくるだけかもしれない。嫌いになるのも嫌われるのも、それ自体が

生きている

と言うことのひとつの表現でしかないのかもしれない。

嫌いになると言う感情も、生命の証明。書きながら考えると結論が思わぬ方向に行くこともあって、驚きます。

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