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“嫌いになること”の強烈さ。

私は、(もしかすると人は)

なんてたやすく人を嫌いになるんだろうなと今日考えています。どうして私は人を簡単に嫌いになるのか。人を嫌いになると疲労します。嫌悪感と言うのはなんて強烈なんだろう、という今日の考察です。

30年以上生きてきましたから好きな人もいます。少ないですが、います。何故少なくなってしまったのかは、その相手が死んでしまったり、事情があって連絡がつかなくなってしまったり、単純に時間の経過とともに疎遠になったり、強烈な諍いをして大嫌いになったりするからです。

でも、少ないですが好きな人はいます。これは恋愛という状態のものもありますが(夫です)、人間的に尊敬できるという意味で好きだなあと思う人が何人かいる、ということなのです。私はそういう人がいてくれることを幸運に感じます。

今日は私が人を嫌いになるときの心理について、自分の心に問うてみようと思い、いつものように手を使っています。

何故汚点や欠点は私の心の強烈に訴えかけてくるのか。

夫の親が大嫌いです。

その理由はいろいろありますが、全部まとめて一言で表現すると、

愚かな行いばかりするから

です。愚かな人たちでした。去年ひとり死にました。その愚かな人の葬式を出すために私はかなり頑張ったはずです。はず、と言うのは、嫌な記憶過ぎてもうあまり覚えていないからです。

私は、どうして彼らの愚かな行いを許せないんだろう。

何様のつもりでそんなことを考える?それは、具体的に私に迷惑がかかるから、というのもありますが、やはり単純に不愉快だからでしょう。

私の基準で、愚かな人と言うのは言葉が足りません。いえ、言葉を凝らして相手に伝えようという意思を持っていません。
(あまり、愚か、と言う言葉を連打すると私もなんだか馬鹿みたいですね)

徹頭徹尾自分の言いたいことしか言いません。自分のやりたいようにしかやりません。それを人に強いていることに気がつきません。どんな人でも少なからずそういう傾向はあるものです。しかし、強烈に訴えかけてくるほど執拗な人を、私は嫌悪するのです。

言葉はコミュニケーションのために使いたい。そう願っています。さらに言うと、今読んで下さっているあなたとのコミュニケーションに、この文章がなっていたらいいなと思っています。ネットのいいところは、リアルタイムに発信できるから、読書がコミュニケーションになることだ。だから私の感じている憤り、むなしさ、そういうものが、あなたの心に何かを訴えたらいいなと願っています。心に訴えることが最良のコミニュケーションではないでしょうか。話がそれました。

何故人を嫌いになることはこうまで強烈な印象を残すのか。

好感というのはお互いに与えあうことが可能だけど、嫌悪感というのはとにかく殴り合いみたいにむしりとりあうものだから。そうではないでしょうか。嫌いな人は私からいろいろなものをむしりとっていきます。時間、お金、何よりも心の平穏。そして激しくエネルギーを消耗してしまう。だから私は人を嫌いになることが嫌いなんです。

出来ればもっと多くの人を好きでいたい。でもなかなか難しいのは、やっぱり私も一方的にまくし立てる愚かな性質を持っているからなのでしょう。

ほら、今だって。

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