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なぜ生徒に「かわいい」と言ってはいけないか

 今日は短めに。「かわいい」という言葉の正体についてです。ちなみに、ルッキズムの話ではありません。なぜなら「かわいい」という言葉とルッキズムは本質的には関係ないからです。

 みなさんはどんなときに「かわいい」という言葉を使うでしょうか。推しのアイドルを見たとき? 猫がご飯食べている動画をみたとき? 道端で小さい子どもとすれ違ったとき? どんなときに「かわいい」と発話しますか?(発話することが肝)

 「かわいい」という言葉を辞書で引いてみましょう。

小さいもの、弱いものなどに心引かれる気持ちをいだくさま。
ほかと比べて小さいさま。
無邪気で、憎めない。すれてなく、子供っぽい。
かわいそうだ。ふびんである。

goo辞書

 なるほど、納得できます。意外と外見に関する意味範囲はないのですね。辞書によって見解は多少ことなるでしょうが。
 犬などのペットを見て、心惹かれるさまは1や3の意味に該当するでしょうか。無邪気に尻尾をふる犬だったり、小さいハムスターを愛でたり。アイドルだった3に近いでしょうか。

 でも、私の定義はこのいずれの意味とも少し異なります。私の定義では、「かわいい」とは「他者が自分の思い通りになっている様子を表す言葉」であり、「他者が自分の思い通りになっている瞬間に『かわいい』と発話する」というものです。

 なんでこの定義にたどり着いたのかというと、私が自分の子どもに対していつ「かわいい」と言っているかということを検証したからです。
 私は、自分の子どもたちに「かわいい」を連発します。だってかわいいから。めちゃくちゃかわいいんですよ。親のひいき目だとしても強烈にかわいい。だから毎日毎日かわいいかわいいと言いまくっています。
 でも、四六時中かわいいと言っているわけではありません。もちろん、子どもを叱っているときや、子どもに対してイライラしているときには「かわいいね」とは絶対に言いません。言ってる方が異常です。
 でも、「小さいからかわいい」「弱いからかわいい」という定義であれば、普通のときの子どもも、叱られているときの子どもも、容姿や外見に変化ないはずですから、外見が起因となる「かわいさ」は損なわれていないはずです。だから、いかに私が子どもを叱り飛ばしてようがかわいいはずなので、叱っている最中にも「かわいいからって調子に乗るな!」くらいは言えそうですが、絶対に「かわいい」という言葉は発話しません。

 じゃあいつ「かわいい」って言っているのかと言えば、「私の言うことを素直に聞いているとき」に他なりません。お手伝いをしてくれたときだったり、写真を撮らせてくれたときだったり、というか私の思い通りになってくれている瞬間に「かわいい」という言葉は飛び出します。
 自分が子どもに付与しているイメージ(シニフィアン)と実際の子どもの行動・様子(シニフィエ)が合致するとき、「かわいい」という現象は生じるのです。

 これは子どもに限りません。動物だってそうです。犬は犬のかわいらしさ、猫のかわいらしさ、ハムスターのかわいらしさ、これらの記号的イメージに、実際の動物の行動が合致するとき、「かわいい」が出現します。猫が爪を研ぐ仕草、犬が舌を出して散歩を待つ仕草、ハムスターが頬袋にエサをためる仕草。すべてが「らしさ」です。「らしさ」に合致するとき、その対象は「かわいくなる」のです。

 アイドルもまさにそうですね。自分が、もしくは集合的に形成されたそのアイドルのイメージにそのアイドルが合致するときに「かわいい」が生じます。
 ただ、アイドルについては違う言葉でその心情だったり関係性を表現します。それが「尊い」です。これについては後述します。

 ここまで書けばおわかりだと思いますが、教員が生徒に「かわいい」という言葉を使うのは言語道断です。なぜなら、ある生徒に教員が「かわいい」と発話する瞬間は、その生徒が教員の思い通りになっている瞬間に他ならないからです。

 この記事でも散々いいましたが、教室における創造的な営みは生徒と教員の間にある緊張関係が必須です。生徒は完全に教員の思い通りになるのでもなく、教員も生徒の奴隷になるのでもなく、互いがギリギリのところで独立性を維持し、しかしそれでいてどこかで依存し合っている状態を保つことがとても大切です。その緊張関係ができていれば「かわいい」という言葉を使っている余裕はありません。なぜなら、生徒は教員の思い通りになっていないからです。そこに「かわいい」という言葉が介在すれば、その時点で、教員と生徒の間には主従関係が生じているはずです(もちろん生徒が教員をかわいいと表現するときもありますが。あぁ、若かりし頃の私…)。

 もちろん、生徒に対して「かわいい」なんて言葉を使う教員がいるわけはないのですが、私としては「絶対に使っちゃいけない言葉リスト」に入れています(その分自分の子どもにめっちゃ言っちゃうのも考え物ですが)。「
 「かわいい」という言葉を発話した時点で、それは他者を包摂する側に立っていることの表明であり、他者を包摂するか排除するかの線引きを「かわいい」という言葉を発することによってしているのです。「かわいい」という言葉に外見は関係ないのです。関係あるのは線引きができるというマジョリティ性のみです。

 そんなこんなで夏休みシーズン。夏休みは教員は生徒から、生徒は教員から、互いに解放されあう時期でもあります。なんとか一回り大きくなって(人間的に)夏休み明け、生徒と再会したいです。

 ちなみに、先ほど話した「尊い」ですが、「尊い」という言葉は、自分の中にある「他者がこうあってほしい」という願望とは全く違う位置に他者がいて、それでも他者は素晴らしい、ということを表現する際に使われる言葉です。自分とその対象との間には断絶があり、断絶の向こう側にいたとしても、絶対に自分には届かないとしても(むしろ届かないからこそ)、あなたは素晴らしいのである、ということを表す言葉だと思っています。子どもに対しても、「尊い」を使うのが適切なのかもしれない。

 短めっていったのに2,370字。お読みいただきありがとうございました。

 

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