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私の生い立ち①

北海道夕張郡栗山町、井澤農園の4代目の妻、井澤綾華です。
自身はフリーランスで管理栄養士や農家・農産物のブランディングを行っています。私は農業や農家が大好き。自称、農家フェチ。だけど18歳まで農業に興味はありませんでした。農家と結婚するつもりもありませんでした(笑)
だけど、今、「食と農」は今の時代・子どもたちの未来をより良くするために必要不可欠なキーワードだと思っています。直接食や農に関わらなくても、人は食べなければ生きていけない。食と農に生かされているからこそ蔑ろにできない。

私が、今ここで自分のバックグラウンドを紐解き、公開することで、食と農に関心を持ってくれる人が増えるのでは。自分の思いをよりたくさんの人に伝えることができるのでは。そして、同じ思いや志を持つ人との素敵な繋がりが生まれるのではないかと思い、noteを書くことにしました。
なんだか長くなりそうですが読んでいただけると嬉しいです。

北海道の端と端、網走と稚内出身の父母が札幌で出会い、札幌市西区発寒に生まれる。札幌生まれ、札幌育ち。父は焼酎メーカーの営業を務め上げ、既に定年退職。母は私が小学校高学年に上がるまでは専業主婦で、高学年に上がった頃から父の扶養の範囲で飲食店でパートを始め、今は小樽のカフェでガーデンを担当している。

「札幌生まれ、札幌育ち」と言っても札幌には「シティーガール」と呼べるシティーガールはほぼいない。北海道は「日本人」が入植して150年〜160年そこらだし、都(みやこ)という都は無いのでね。その上北海道の端と端で生まれ育った2人から生まれた私なので、元来田舎っぽさはあるのではないか。

私の初節句の写真

私の食や農への関心の源はきっと父と母にある。父の実家は網走(北海道のほぼ極東)で、祖父母は趣味でそこそこ大きな畑と庭を持っていた。主に祖母が庭いじりが好きで珍しいお花や野菜を育てていた印象で、帰省するたびに庭で探検していた。祖父は父を幼い時に亡くし、母が自営業で商店を営んで女手一つで祖父と兄を育てており、それを手伝った。数学の先生になって欲しいという話を断って商店を支え、その後網走の冷凍食品会社に勤めた。祖父母から届く荷物の中のカニの甲羅に入ったグラタンや、ゴマにまみれたサツマイモのコロッケがとっても美味しかった記憶がある。

母の実家は稚内(北海道の極北)ではあるが、母方の祖父はそこから転々とし農家の仕事を手伝ったり、炭鉱や鉄鋼の仕事をしたり。祖母は炭鉱の食堂で働いていた時に祖父と出会ったそうだ。祖母は料理が好きだし上手だったと思う。祖父は樺太で少年時代を過ごしたと聞いていて、ロシア人との友情話やウォッカを嗜んだ話を聞いたことがある。祖父は鱈の白子でかまぼこを作ったり、飯寿司や切り漬け・ニシン漬けなどの北海道の郷土料理を日頃から作ってくれた。母もその味を好んでいたし、私も好きで祖父から教えてもらったり、祖父の味を覚えて育った。

幼少期は父親が働いている会社の社宅で育った。生後から小学校4年生頃までだろうか。社宅ということで、若い夫婦やその子供たちが住んでいたため、小さなアパート群ではあったが10家族以上が住んでいたと思う。そのアパート群の駐車場の向かいに25メートルプールほどの大きさの畑があり、社宅のメンバーが自由に使えるようになっていた。春には母が畑を耕しているのをみながら遊び、夏には収穫した野菜でバーベキュー、秋には栗の大木の下で栗拾いを楽しんだ。冬は大人たちが雪かきをしている傍ら、雪で覆われた畑で巨大な鎌倉を作ったり秘密基地を作ったりしていた。妹がいたので妹や、友達とも畑で遊んだ思い出がある。少し洒落た表現になるが、私はコミュニティーファームに生まれ、コミュニティーファームで育ったと言っても過言ではない(母がポップコーンを作ろうと言って、畑で採れたスイートコーンを庭で干していた最中、カラスに全滅させられたというツッコミどころ満載の話も今度したい)。私にとって畑(と言っても農家からすると小さな庭だが)は身近な遊び場だった。

しかし、畑に近い場所で生まれ育ったからといって、幼少期は食べることは好きでも畑に興味はなかった。幼少期から私は「パン屋さんになりたい」と思っていた。理由は単純で、近くのスーパーのインショップベーカリーのお姉さんが優しくて可愛かったからだ。それでも、家にあった小さいジャングルジムの上で「パン屋さんになれますように」と毎日、星にお願いしていた記憶があるほどにパン屋さんになりたかった。

小学校中学年からミニバスケットボールに打ち込み、中学生ではバレーボールをするなどスポーツが大好きだったが、パン屋さんになりたかった。今考えると、自分で自分に「パン屋さんになりたい」を刷り込んでいたのかもしれない(笑)。ただ、お姉さんが可愛かった以外に理由が思い出せないのが残念だ…

あとは自分の性質上、長女で責任感が強めで、女子女子していなくボーイッシュで正義感の強い子供だった。小学生時代は休み時間や放課後も男子とサッカーや鬼ごっこをして遊ぶことが多かった。キャプテンまで務めたミニバスに打ち込んでいた小学生時代、見れる時間帯で好きなテレビは戦隊ヒーローだった(仮面ライダーはもう家を出る時間だった)。そんな私は小学校の道徳の授業で世界の飢餓問題や経済的な不平等についてを学んだ時、自分がなんて幸せなんだと思い、将来はお腹が空いて死んでしまう子供を減らしたいなと感じたことを覚えている。

高校生になってもまだ、パン屋さんになりたかった。勉強や本を読むことも好きで記憶力もそこそこ良かったので、高校は札幌西高校という進学校に入学することができた(一番の理由家から一番近いこと、二番目は制服がないのでスカートを履かないで良いこと)。高2になり担任と進路相談をする時期になった時も真面目に「パン屋さんになりたい」と言った。そこで、私は自分の人生で初めて他人に「その夢は考え直してみたらどう?」と言われたのだ。(うちの父母は常に子供たちのやりたいことをとことん応援するスタンスだったので)衝撃的だったが、担任の言い方は否定系ではなく、もっとたくさんの選択肢があるんだよ、という言い方だった。私が絶対なりたいという理由を言えなかったからかもしれない。「パン屋、は食品業界や農業にも関係する。農学部や栄養学部がある大学を考えてみたらいいのではないか」と言われ、素直に「確かにな」と思った。

その日から、食や農業系の進路を考え始めた。母の影響で料理が好きだったため、部活の引退後(女子バスケットのマネージャー)、料理コンテストにも挑戦してみた。いくつか入選したり商品化が決まったことで面白みを感じ、商品開発やレシピ開発をやってみたいかも、と思い始めた。なりたい職業はすぐには見つけることができなかったが、せっかく勉強するのなら食のプロフェッショナルを目指そうと決めて食の業界で一番信頼性があり専門性が高い「管理栄養士」という資格を取ろう、とりあえずその資格が取れる学校に行こうと決めた。それと同時に、小学生の頃に「お腹を空かせて死んでしまう子どもを減らしたい」と思ったことを思い出し、栄養学で世界の飢餓を減らす助けにもなれるであろうと思った。

管理栄養士の資格を取得するためにはいろいろ方法があるのだが、実家から通えることが決め手で天使大学の栄養学科に進んだ。飢餓や貧困から、広く社会問題にも興味を持ち始めた頃、所属していた大学のサークルで農家に2泊3日ファームステイする企画があった。その時に初めて農家に出会ったのである。

18歳の私

食べることが好きだからか、食関係の思い出ばかりが色濃く残る私の頭の中ですが、父と母、その父と母たちが私の今に影響を与えているはず。
今、私は31歳です。3000字以上を書いてとりあえず半生以上は書けたので、「農家」に初めて出会った以降のことはまた後日書くことにします。お楽しみに!(笑)

続く!

ちなみに、「パン屋さんになりたい」という夢は、高校3年生の夏頃から大学1年生の終わり頃まで、パン屋さんのアルバイトをしていたことで少し叶えられました。

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