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【ベトナム旅行記】ホーチミン篇~その②~ベトナムが見た地獄

ベトナム戦争証跡博物館の展示が多く、
1回で書き切るには長すぎたので、2回にわけさせて頂きました。

今回は、展示の後半部分の
・枯葉剤と後遺症被害
・アメリカ軍の破壊行為
・ベトナム侵略戦争の牢獄(屋外展示)

枯葉剤と後遺症被害

 ベトナム戦争ではアメリカ軍によって枯葉剤が兵器として使用され、
ベトナムの人々に大きな被害を与えた。今なお、ベトナムの人々を苦しませ続けている枯葉剤なくして、ベトナム戦争を語ることは出来ないので、
展示を通じ知った情報をまとめる。

  •  そもそも枯葉剤とは何なのか?

 もともと枯葉剤も除草剤の一種で、雑草や芝生の防除として使用されていた。アメリカの化学メーカーMonsantoによって大量生産され、ベトナム戦争で化学兵器として使用されることになった。
 枯葉剤の成分には、ダイオキシンの一種である2,3,7,8-テトラクロロジベンゾ-p-ジオキシン (TCDD)が含まれていた。TCDDは泥に混ざって川に溶け込み、プランクトンや魚を通じ、人の体内に入っていく。
TCDDは、人体に悪影響を与え、以下の被害が実際に起きた。
 ・身体の一部が欠損した子どもが生まれる。(=先天性欠損症)
 ・がんなどの重病になりやすい(=発がん性リスク)

  •  では、なぜベトナム戦争で、アメリカ軍は枯葉剤を兵器として使用したのか?

敵である南ベトナム民族解放戦線、通称ベトコンが森林に隠れてゲリラ戦を展開しており、彼らの隠れ家である森林を枯れさせることで、
効率的にベトコンの一掃を図ることが目的であった。

飛行機が低空飛行しながら枯葉剤をまく様子。

 ベトナム戦争における、枯葉剤/ダイオキシンの被害について長年にわたり取材をされている中村梧郎氏の著書『戦場の枯葉剤』によると

1961年から1975年にかけてゲリラの根拠地であったサイゴン周辺やタイニン省バクリエウ省のホンザン県などに大量に撒布された。アメリカ復員軍人局の資料によれば確認できるだけで8万3600キロリットルの枯葉剤が撒布された。

中村梧郎『戦場の枯葉剤』

実際の被害の例が展示されてたので、写真をいくつか紹介してみよう。

枯葉剤を浴び、葉が全て枯れて、
幹と根だけが残ったマングローブ林
写真下部のこどもは、枯葉剤を浴びた父の復員後に生まれ
生まれつき目が見えない。(=全盲)
母親が枯葉剤の被害に遭ったため、手足がかなり細くなっている3兄弟

ご覧の通り、森は枯れ、
ダイオキシンを含んだ親から生まれたこどもは、
多くの障害を背負い、身体の一部を欠いた状態で生まれてきた。
また、病気になるリスクが高く、早死にする人も多かった。

しかし、この展示、
写真があまりにも生々しく、正直撮影すること自体
怖くなってしまい、私の手元にある写真がかなり少ない。

ゆえに、枯葉剤の被害をもっと詳しく知りたければ、
この博物館の展示を見に行くか、関連する書籍を読んでほしい。

ベトさん、ドクさん

一時期日本でも報道された、
下半身と下半身が繋がった状態で生まれた双子、
いわゆる二重胎児の
グエン・ベトさん、グエン・ドクさん。
彼らも枯葉剤に含まれるダイオキシンの影響を受けていて、
通常の10倍近く二重胎児が生まれていたそうだ。

1981年末、中村梧郎氏は生後10ヶ月の彼らに会ったとき、
「この子たちも長くは生きられまい・・・」
と直感したそうだ。
二重胎児のほとんどは1年以内に死亡した報告がされたためである。

しかし、彼らは困難にぶち当たりながらも生きた。
ベトが熱病を発した際には東京の日赤に運んで治療し、
1988年10月4日には、彼らの分離手術が行った。
辛い手術を乗り越え、彼らが成長できた背景には日本からの支援があった。必ずしも金銭的なものではないが、多くの人が彼らを思い行動を起こしたからこそ、彼らは生きることが出来た。

ベトさんは2008年、脳障害に苦しみ、闘病の末、亡くなってしまった。
ドクさんは左足こそ無いが、今でもご健在。
障がい者支援室で働きながら、時折、平和の語り部としても活動している。
かつて支援を受けた日本のことを今でも気にかけており、
新型コロナウイルスが流行った際には日本にマスクを贈ったそうだ。

施設で働くドクさん。いつかお話を伺ってみたい。


ベトナム帰還兵の被害

また、被害を受けたのはベトナム人だけではない。
枯葉剤を使った側のアメリカ人にも被害が及び、
被害を訴えた者は7万人を超えている。
彼らは、ガンや皮膚炎、麻痺など身体的な後遺症
就職差別など精神的な後遺症に苦しんだ。
枯葉剤が原因で家庭崩壊したところさえあった。

下の写真は、ベトナム戦争に従軍したJ.ラッツ氏の家族写真である。
航空偵察隊員として従軍したラッツ氏は
帰国後、後遺症に悩まされ、毎日薬を20種類飲み、
彼の子どもたちにも障害が残った。

1994年撮影。11人家族のうち、5人の子どもに障害が見られた。

結果的にベトコンを攻めるために使った化学兵器は
自国民を傷つけることになってしまった。
いわゆる「自分で自分の首を絞めた」ことになってしまった。

アメリカ軍の破壊行為

また、アメリカ軍がベトナム人に行った大量虐殺や空爆などの
戦争犯罪の展示もあった。
空爆直後の遺体が放置されてある写真もあり、
見ていて寒気がしてきたのが正直な感想である。

中でも、
1968年3月16日、ベトナム中部クアンガイ省ソンミ村での
大量虐殺事件は国内外に大きな波紋をもたらした。

早朝5時30分、米陸軍ウィリアム・カリー中尉率いる米兵部隊は9機のヘリコプターでソンミ村に降り立ち、無抵抗の村人に次々と、無差別射撃を行った。
殺された人数は504人。
内訳は、182人が女性[そのうち17人が妊婦]、173人が子ども[そのうち生後5ヶ月以内のものが56人]、60歳以上の老人が60人、あと89人が中年で、
生存者はわずか3人であった。
まさに「世紀の戦争犯罪」である。

この事件をアメリカ軍は反戦運動に繋がると考えて、隠蔽し続けたが、
翌年1969年には世界中に報道され、アメリカの残虐な行いが
明るみになった。

ただ、裁判では、虐殺の首謀者である、ウィリアム・カリー中尉,
アーネスト・メディナ大尉をはじめとした14人が起訴されたものの、
部隊の取ったカリー中尉に終身刑が言い渡されただけで、
この措置に関して甘すぎると批判が殺到した。
さらにカリー中尉は3年ほどで釈放されたため、
当然の如く世界中から大きな非難を浴びた。

博物館では、村人の折り重なる死体とともに、
犠牲者の名前を一人一人記したモニュメントが置かれていた。

左上が、犠牲者の遺体

ちなみに、事件があった村には現在、
「ソンミ村虐殺事件記念館」が建てられてある。

ベトナム侵略戦争の牢獄(屋外展示)

屋外には、ベトナム戦争の最中、
アメリカ軍と南ベトナム政府が捕虜の収容に使用していた
牢獄の展示がなされていた。

ギロチンや、有刺鉄線を用いた檻、
足枷で固定された捕虜の様子などが展示されていた。

当時使用されていたギロチン


足枷で固定された捕虜の再現


牢獄の外観

このほか、
各国のマスメディアでのベトナム戦争の取り上げ方
昔使われていた戦車や武器
ベトナム戦争で使用された爆弾からできた鐘が展示されていた。


日本で使用されていた反戦旗
戦闘機には詳しくないが、ベトナム戦争で使用された。
これ以上武器が作られないことを祈ります。


まとめ

枯葉剤の影響を受けた奇形児の写真を見たとき、
正直怖くて写真を直視できなかった。
一応何枚か撮影したが、写真を撮影するにも
何か罰が下りそうな気がして怖かった。

ただ、広島の原爆資料館よりも直接的に、
被害の展示をしているとは思った。
今回の投稿で挙げた写真よりも展示された写真は、恐ろしく、
正直枯葉剤の被害を受けた人々の写真は同じ人間だと思えなかった。
ただ、それを包み隠すことなく、展示していること、そこから
博物館の展示に対する思いの強さを感じた。
同時に、人間の姿形だけでなく、家族や生き方までも大きく変えてしまった
ベトナム戦争の恐ろしさを感じた。

アメリカは、枯葉剤や虐殺行為など、戦争に勝つには何でもやった。
しかし、そこまでやったにもかかわらず、戦争には勝てず、
また多くの死傷者、国際的な信頼など、
失うものの方が大きかった。

一部のアメリカ人は「白人至上主義」を今も信じているかもしれない。
だけど、人間は肌の色などで優劣は決められないし、
そもそも人間の命を奪ってはいけないはず。
みんな同じ「ホモ・サピエンス」である。
地球に生きる人間としてその大原則を忘れてはいけない。

私の好きな歌はこのように教えてくれた。

生まれた所や皮膚や目の色で

いったいこの僕の何がわかるというのだろう

運転手さんそのバスに

僕も乗っけてくれないか

行き先ならどこでもいい

こんなはずじゃなかっただろ?

歴史が僕を問いつめる

まぶしいほど青い空の真下で

THE BLUE HEARTS 「青空」より
いつか我々の前に平和を運ぶ鳥が来ることを願う。

ここまで2回に分けてベトナム戦争のお話をしてきたが、
次はホーチミンの観光スポットを紹介して
ベトナム旅行の締めとしようと思う。

ベトナム戦争の戦火を受けた頃とは違い、
経済的にも大きく発展したベトナムの姿を見ることができた。

参考文献

中村梧郎『戦場の枯葉剤』(岩波書店)


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