いわし
フェルディナント・ヒラーが書いたメンデルスゾーンの回顧録をちまちまと和訳しています。 現在は更新をお休み中。2025年1月より、更新再開予定です!
「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる!で所信表明したとおり、誤訳を恐れず重訳を恥じず、GoogleとWikipediaの力をふんだんにお借りしてちまちまと翻訳するシリーズをはじめた。 ここには、進捗状況一覧を兼ねた目次を掲げておく。記事をアップしたら目次の各章タイトルにリンクを貼っていこうと思う。 なのでこの記事は、都度都度更新していく予定だ。 また、底本の冒頭にはメンデルスゾーンの略歴がついているので、そちらも目次の後に載せておく。 底本とした英訳本は
ご無沙汰しております。いわしです。 「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる!シリーズを2025年1月より再開することにしました。 先駆けてお知らせのため、久々の投稿です。 「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる!シリーズとは、日本語で読めるフェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)の資料が少なすぎることにブチ切れた筆者が、メンデルスゾーンの親友であるフェルディナント・ヒラー(1811-1885)が書いた回想録を、誤訳を恐れず重訳を恥じず、202
第5章-18.ベルリン、1838年:新しい音楽への渇望 だけど一番重要なのは、できるだけ多くの新しいものを手に入れることです。この世界には良いものと美しいものが山ほど存在しているはず。だから僕は君の序曲とオペラにとても注目してるんです。 僕がケルンで開催された音楽祭に行ったことは、もう知ってますよね。万事うまくいきました。 あのオルガンはヘンデルで非常に効果を発揮し、バッハではさらに効果的でした。バッハの曲は君もまだ知らない新しく発見されたもので、豪華な二重合唱があります
第5章-17.ベルリン、1838年:ベルリンであった良い事悪い事 五月からずっと故郷に滞在しています。なんだか不思議な感覚になりました。故郷も、僕自身も、あの頃と比べて本当にいろいろ変わったというのに、一度も離れたことがないかのように快適なくつろいだ雰囲気なのです。 それに僕の家族は、ここではずいぶん世間と交わらず隔絶した場所にいるので、ベルリンのことをほとんど知らず、身内以外との接触はほとんどありません。これには良い面も悪い面もあります。 今、家を出た者としての視点で偏
第5章-16.ベルリン、1838年:筆不精な文通相手ベルリン、1838年7月15日 親愛なるフェルディナント――地を満たすあらゆる種類の生き物は、神によって創造されたものです。 つまり筆不精な性格すらも神の思し召しなので、僕が生まれ持ったその性質についてあまり怒らないでください。 インクがすらすらと流れない時もあるし、もし僕から手紙を書かなくても君からすぐに答えが返ってくるとしたら、本当に手紙の書き方を忘れてしまいそうです。 長い間の音信不通と、この硬い文章からお分
第5章-14.ライプツィヒ、1838年:『聖パウロ』ドレスデン初演の愚痴 もっといい話題に変えましょう。君の詩篇の楽譜コピーを送ってはいただけませんでしょうか? もし他に新しい作品があればそれも一緒にして、小包まるごと、こちらのW・ヘルテル宛てによく荷物を送っているリコルディに渡してくれませんか? 君のためにもなるはずです、だから何度でも何度でも、君に拝み倒します。 僕もこの冬は、わりと忙しかったです。ダヴィッドが僕の新しい弦楽四重奏曲変ホ長調を演奏し、後日彼のソワレの
第5章-14.ライプツィヒ、1838年 イタリアとドイツ もし僕が君だったら、受難週の祝祭のためにローマを訪れて、昨日あたりとぼとぼとそこを発ったところでしょう。君もそうしたんじゃないかとずっと思っています。 棕櫚の主日には、僕はいつも教皇の礼拝堂と黄金の棕櫚の枝に思いを馳せます。式典の次第や壮大さは、僕が今まで見た中で最も荘厳で素晴らしいものです。 君も同じものを見て同じように考えているといいなと思います。 君が教えてくれたミラノでの出来事と君のそこでの近況、リスト
第5章-13.ライプツィヒ、1838年 セシルの出産と不調、子煩悩まっしぐらライプツィヒ、1838年4月14日 親愛なるフェルディナント。長くご無沙汰してしまって、きっと怒っていることでしょう。再度許しを請う事しかできません。 そして僕の噂に名高い拳を目にした君が、怒りを思いやりに変えてくれることを願っています。 前回の手紙から今までの間に色々な事が起こり、そのせいで手紙を書けませんでした。君のお母さんから既に聞いているかもしれませんが、2月7日にセシルが僕に息子を
第5章-12.ライプツィヒ、1838年 フェルディナント・リースの急逝 最近は、デュッセルドルフのブルグミュラーの交響曲がとてもお気に入りです。 昨日シュライニッツが君のト短調の歌曲(「Europa」の)を持ってきて歌って聞かせて、誰の曲か当ててみろとクイズを出してきました。 答えられなかったことが腹立たしくて、後になって歯噛みしました。冒頭を聞いただけで答えるべきでした、それかせめて中間のト短調付近で。 近況としては、ヴァイオリン四重奏(※1)と、ピアノとチェロの
第5章-11.ライプツィヒ、1838年 あがり症のヘンゼルト 詳しい手紙を本当にありがとう。僕は君が思っているよりずっと、君が過ごしている楽しく素晴らしき日々について興味津々なのです。 だから手紙にはいつもその楽しい記録をたくさん書くこと。君の詩篇のこと、彼らがそれをどんなふうに歌ったのか、君はもうオペラを書き始めたのか、どんなジャンルを選んだのか、あとピクシスの彼女の「デビュー」について――要するに、君の近況と君の好みをありったけ教えてください。 ここでは全てが、いつ
第5章-10.ライプツィヒ、1838年:不調と不安ライプツィヒ、1838年1月20日 ミラノの「戯曲」君。君の手紙の、人を小馬鹿にしたような書き出し、締切厳守のリマインダーを見下す振る舞いで、僕はもう決心しました。第一に、僕自身は締切厳守を徹底すること、そして第二に、もう君にリマインドをするのをやめる、ということをです。 ですが、僕が第一の決議を守れていないことは手紙の日付から分かると思います。また、第二の決議を厳守できたかどうかや、この手紙に時折紛れ込むリマインダーに
第5章-9.ライプツィヒ、1837年:お気に入りの自作、そうじゃない自作 新しいものの中で一番よかったのは、ベートーヴェンの『栄光の瞬間』。ウィーン会議で会した三人の君主たちを称える、長いカンタータ(コーラスありソロあり他にもいろいろ約45分)です。 素晴らしい部分がいくつもあるけれどカヴァティーナは例外です。ベートーヴェンの壮大なスタイルの祈祷文なのですが、とにかく詞がみじめなほど間抜けで、「heller Glanz(明るく輝く)」と「Kaiser Franz(皇帝フラン
第5章-8.ライプツィヒ、1837年:ノイコムとノヴェロの話 指揮ばかりの二か月間は、作曲ばかりの二年間よりもずっと多くのものを僕から奪っていきます。この冬はほとんど行きません。 大騒ぎの末に、実際自分が何をしてきたかと自問してみても、結局話す価値のあることはほとんどないのです。少なくとも、良かったと思えたことがまた再現するかどうかに、僕は特に興味ありません。新しいことにだけ興味があるのに、ここではそれが足りないのです。もう完全に引退して、これ以上指揮もせず、作曲だけをして
第5章-7.ライプツィヒ、1837年:引っ越した新居が最高な件 ライプツィヒ、1837年12月10日 親愛なるフェルディナント、僕の方は送らなかったのに11月に手紙をくれて、本当に心からありがとう。信じられませんでした。 新居の手配、引っ越し、多くのコンサートと仕事の引き合い――僕のようなつまらない凡人はこんな感じで列挙するしかないけど、君のようなスマートで明るいイタリア人風に言うと――家主、居住者、そして定期コンサートの音楽監督という3つの職に着任したこと――これら
第5章-6.ロンドン、1837年:女の子達が書くような、追伸 ここはかなり静かです。ほとんどの人は田舎かどこかへ出かけています。 モシェレス一家はハンブルクに数週間の滞在中で、彼らには会えそうもありません。 タールベルクはマンチェスターなどでコンサートをしており、すごいセンセーションを巻き起こしてどこでも大歓迎されています。彼とはまだ会えるかもしれないと思っています。 ローゼンハインはブローニュにいて、もうすぐ戻って来ます。ベネディクトは田舎のパトニー。 クララ・ノヴ
第5章-5.ロンドン、1837年:ヒラー、イタリアへ行く! 遅ればせながら、私もついに旅に出た。まず初めにシュヴァルツヴァルトを徒歩であてもなく散策し、友人のフェルディナント・ダヴィッドと、その元気で上品で面白い奥方と一緒に、バーデンで楽しい数日間を過ごした。 それからチロルへ向かい、秋の終わりにはイタリアへ到着してそこで一冬を過ごした。気候がよくなってすぐ、子離れできない私の母が合流した。 下記のような、この当時メンデルスゾーンが私宛てに書いた手紙は、私のペンよりもよほ