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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 50

第5章-11.ライプツィヒ、1838年 あがり症のヘンゼルト

 詳しい手紙を本当にありがとう。僕は君が思っているよりずっと、君が過ごしている楽しく素晴らしき日々について興味津々なのです。
 だから手紙にはいつもその楽しい記録をたくさん書くこと。君の詩篇のこと、彼らがそれをどんなふうに歌ったのか、君はもうオペラを書き始めたのか、どんなジャンルを選んだのか、あとピクシスの彼女の「デビュー」について――要するに、君の近況と君の好みをありったけ教えてください。

 ここでは全てが、いつも通りの粛々とした音楽手法で進んでいきます。毎週一度の定期コンサート、そこで僕達が何をしているかは君もご存知の通りです。
 新年最初のコンサートは、いつも宗教音楽で幕を開けます。詩篇「鹿が谷川を慕い喘ぐように」を演奏しました。フィナーレに新しく凝ったコーラスも加筆して、全体の出来にとても満足しています。書いている時から完成後の今もずっと気に入っている、数少ない自作曲のうちの一つです。
 パリで絶賛され音楽院で演奏されたテーグリヒスベックの交響曲は、たいして印象はなく、僕には特に何も感じられませんでした。

 ピアニストのヘンゼルトは年末からここに滞在していて、確かに素晴らしい演奏をしています。彼が一流であることはもはや疑いもありませんが、彼が自身のドイツ人らしい心配性と慎重さを飼い馴らして――つまり彼のあがり症を克服して、広く人気を得てロンドンやパリで演奏できるようになるかは、まだ分かりませんね。
 本来なら身体と指を休めておかなければならない、夜にコンサートがある日ですらも、彼は一日中練習しています。そんな日はやはり疲れからか、いつもと比べて機械的で不完全な演奏になってしまっています。
 彼の特筆すべき長所は、広範囲の和音をつかめることです。彼はいつも指のストレッチをし、そして次にこれをプレスティッシモで弾いています。

【楽譜】

 彼の練習曲は魅力的で、彼の協奏曲にも素晴らしい特徴を与えています。彼は今、ロシアへ向かっています。

 僕達は君の序曲ホ長調を彼のコンサートで演奏しました。上手くいったので、僕はとても楽しかったですよ。
 次はフェルナンドの序曲の番……なのですが、君のお母さんが僕に完全版の総譜を送ってくれていません。送ってくれたのは、もう手元にあるので不要なパート譜でした。僕が入手できたのは交響曲ホ短調の総譜だけ。君は燃やしてくれていいと言っていたけど、君の許可があろうとなかろうと、僕はそんなことはしません。
 またもや最終楽章に進めないのは不思議なことですが、第2、3楽章は以前よりも僕の好みです。2月のどこかのコンサートで演奏することに決まりました。


解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回に引き続き、1838年1月20日の手紙を紹介している。1通の手紙を3回に分けたうちの、2回目だ。

 前回の書き出しは、読んだこちらがヒヤッとするような不穏な書き出しだったが、結局はその雰囲気も冗談でホッとした。
 ヒラーは一体どんな返事を書いていたんだよ……と思ったが、ちゃんと楽しい近況を書いて送っていたようだ。楽しくやってるからフェリックスの頼みを忘れちゃうんだよね、なんて書いていたとしたら、手紙の書き出しの文面でも頷けるが。ヒラーの手紙もどこかで見つかるかなあ……。

 ヒラーの作曲した『詩篇』は、IMSLPで見られるものだけで43、93、125の3曲があった。作品番号は125がop.60で一番若いが、作曲年代は少し調べただけではちょっと分からなかった。
 詩篇43はメンデルスゾーンも同じ題材で作曲している(op.78-2)。聴き比べてみるのも楽しそうだ。

 そもそもヒラーが長年イタリアへの憧れを抱き続けたのは、イタリアオペラへの思いが強かったからだと思われる。
 オペラの大家・ロッシーニを頼ってミラノへ渡ったのも、もちろん広く音楽を学ぶためとはいえ、やはりその中でもオペラ分野の勉強をしたい気持ちは大きかっただろう。
 メンデルスゾーンも「どんなジャンルを選んだのか」と尋ねているが、ヒラーの最初のオペラ『ロミルダ』は、IMSLPでリブレットを見ることができるのだが、いかんせんイタリア語なので筆者には手も足も出なかった……。
 それでもグーグル翻訳先生になんとか尋ねてみたところ、おそらく772年~804年にかけて起こったフランク人によるザクセンへの侵攻「ザクセン戦争」を題材にしているらしい。……多分。
 このオペラ、あらすじや内容よりも「失敗した」という情報ばかりがヒットするのでちょっと切ない気持ちになる。

『ピクシスの彼女』については、以前の記事でも話題にした通り、ピクシスさんの28歳年下の養女(嫁さん候補)フランツィッラちゃんの件だ。
 ショパンにも書簡で揶揄われていた(1831年12月12日付ティトゥス宛)くらい、ピクシスさんは彼女に夢中な模様。ここで「デビュー」という単語はフランス語で書かれていた。
 この「デビュー」がオペラ歌手としてイタリアで「デビュー」するという意味の他にも、ピクシスの花嫁としての「デビュー」はもうしたのかい? みたいなWミーニングがあったらどうしよう。どうもしないけれど。

 新年最初のコンサートは宗教音楽で幕を開けるのがセオリーとのことだが、この年(1838年)はメンデルスゾーンの詩篇第42番「鹿が谷川を慕い喘ぐように」(op.42)でスタート。
 以前の記事でも紹介した、メンデルスゾーンが「新婚旅行の音楽的成果」と言っていた、自身もお気に入りの曲とのこと。新年最初の演奏曲がお気に入りの曲なんて、いい年になりそうだ。

 一度で音読するのが難しいテーグリヒスベックさんは、おそらくこの方だろう。

★トマス・テーグリヒスベック(Thomas Täglichsbeck, 1799-1867)
 ドイツのヴァイオリニスト、作曲家、指揮者、音楽教育家。
 父ヨハン、ピエトロ・ロヴェッリ、ヨーゼフ・グラッツらに師事。ドイツ各地を中心にオーケストラのヴァイオリニストや宮廷楽長、音楽院教授などを務める。
 ミサ曲、オペラ、弦楽曲、ピアノ曲などを作曲。中でも交響曲第1番変ホ長調(op.10)は、パリ音楽院オーケストラで演奏され大人気を博した。

 この交響曲自体が、パリ音楽院コンサート協会オーケストラに献呈されている。
 1836年に初演されて以来聴衆に大人気だったこの曲、メンデルスゾーンは特に心を動かされなかったらしい。音楽家の中ではベルリオーズも、「学術的な曲。ただそれだけ」と酷評している。
(ただしベルリオーズは、翌年の再演時に「こういう曲って何回か聞くと魅力が分かってくるもんだわ」と評価を覆しスルメ曲認定しているようだが)

 ピアニストのヘンゼルトはこの方。

★アドルフ・フォン・ヘンゼルト(Adolf von Henselt, 1814-1889)
 ドイツ出身の作曲家、ピアニスト、音楽教育家。
 フンメル、ゼヒターらに師事。
 1830年代から欧州各地でコンサートに出演、聴衆だけでなくリストなどの音楽家からも絶賛を受けヴィルトゥオーゾとして人気を得た。その半面、あまりにもひどい舞台恐怖症のため30代で演奏活動を引退している。
 ロシア・サンクトペテルブルクに拠点を置き、ロシアのピアノ教育に多大な貢献をした。
 練習のしすぎで静養が必要になったこともあるほどの勤勉家。ゲーテの主治医だったフォーゲル博士の妻ロザリーと駆け落ちした(のちに結婚)。

 ショパンやリストが好きな方には一種のバイブルとなっている(であろう)「パリのヴィルトゥオーゾたち ショパンとリストの時代」(ヴィルヘルム・フォン・レンツ著 中野麻帆子訳)amazonページ は、日本での知名度を考慮してかショパンとリストの章だけが訳されている。
 が、元々の原著タイトルは「Die Grossen Piano-Virtuosen Unserer Zeit Aus Pers Nlicher Bekanntschaft: Liszt, Chopin, Tausig, Henselt」。
 レンツは「当世の偉大なヴィルトゥオーゾ・ピアニスト」と称した本で、リスト、ショパンに並べてタウジヒとヘンゼルトを挙げていたわけだ。
 当時はロシア帝国領だった現在のラトビア出身のレンツは、世界中を遍歴してはいるが基本的にサンクトペテルブルクに居を置いている。
 ロシア音楽に大きく貢献したこともあり、ヘンゼルトは、レンツ的にも外せない人物だったのだろう。

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画像:Wikimedia commons 
その特徴的な髪型が非常に印象に残る。キューp……いやなんでもない。

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画像:Wikimedia commons 
 だけどその彼も晩年はこんな感じだったようなので、時の流れは残酷。

 この時代のピアニストで演奏会嫌いといえばショパンが有名だが、ヘンゼルトはそれに輪をかけた演奏会嫌いだったらしい。
 とにかく緊張しいで、ピアノ協奏曲もピアノ独奏が始まる直前ギリギリまで舞台袖に隠れていたとのこと。かわいそかわいい。
 メンデルスゾーンはこの少し年下のピアニストに向けて、「このあがり症を克服できるかどうかが、この先彼が成功するかしないかのカギ」と書いているが、残念ながらヘンゼルトは克服することができず、33歳にして早くもコンサートピアニストを引退してしまうのだった……。

 当時の講評によるとヘンゼルトの特長は、リストに「ビロードの手」とよばれ羨望された、その詩情溢れる歌うような演奏。リストの響きの豊かさと、師フンメル譲りの滑らかさを併せ持つ、と称賛されている。
 そしてもうひとつ。メンデルスゾーンの手紙にもドンピシャで書かれている、非常に柔軟性の高い手指による、幅広い音域の和音とアルペジオだ。
 上記訳文に【楽譜】とある部分には、こんな楽譜が入っている。

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 筆者はピアノを弾かないので、ピアノ弾きの相方に尋ねたところ、「これをプレスティッシモ(非常に早く)では自分には届かない、指が攣るか裂ける」とのこと。こわ。
 改めてヘンゼルトの超絶技巧が分かった。

ヘンゼルトの協奏曲は、当時は演奏機会の多い曲だったようだが、他の忘れられた音楽家の例に漏れず、現代では生で聴く機会がほとんどない。
 みんな大好きハイペリオンレコードさんの「ロマン派の知られざる協奏曲シリーズ」でCDが出ているので、ご興味のある方はぜひ。
 ハイペリオンレコードのwebサイトで視聴もできる(下記リンクはハイペリオンレコードのwebサイト/英語)。

The Romantic Piano Concerto Alkan & Henselt: Piano Concertos
 ピアノ協奏曲CD。アルカンとセットになっている。
 ピアノ協奏曲の出だし、最初に聞いた時に既聴感があったのだが、ある年齢層で関東圏出身者は「東武ワールドスクエアのCM」って言えば分かってもらえる気がする。
 ちなみに試聴はたっぷり57秒も聴かせてくれるのだが、まだピアノは登場しない……ヘンゼルト舞台袖から出てこない……。
 ちなみに手持ちのCDで確認したら、ピアノの登場は2'23"あたりだった。

Études Opp 2 & 5
 メンデルスゾーンが手紙の中で褒めている練習曲もCDが出ている。
 op.2、5共に1838年に出版された作品で、メンデルスゾーンが具体的に褒めた作品がどちらなのかはわからない。
 今回初めて試聴したのだが、初っ端(op.2-1)からショパンのプレリュードに似た旋律があって驚いた。

 ヒラーの序曲ホ長調は、1836年にも演奏していたものの再演と思われる。初演当時からメンデルスゾーンが絶賛していたあれだ。
 そしてなかなか演奏できないでいるフェルナンドの序曲=演奏会用序曲ニ短調……はたして2月のどこかで、演奏できるのだろうか?
 前回の手紙で「パート譜と違いすぎてますます混乱した」と書いていたホ短調の総譜(自筆譜)は、ヒラーからは「燃やしていい」と返事があったようだが、そんなことしないよ! と返事をしている。
 以前よりも僕の好み、と書いているのは、序曲ニ短調が以前演奏された(そして不評だった)ものから改訂を経た同じ曲という意味なんだろうか。
 曲がたくさんでごちゃごちゃしてきた……ここらへんでちゃんと一覧表を作るべきかもしれない。作るべき一覧表が多いなあ。

次回予告のようなもの

 3回に分けた1838年1月20日の手紙も、次回で最後。同じ手紙の終盤を紹介する。
 終盤にはメンデルスゾーン本人ののんびりとした(少なくともそう聞こえる)近況と、1838年1月13日に急逝したフェルディナント・リースについての記述がある。1837年10月に亡くなったフンメルの話題なども出てしんみりした雰囲気が流れるが、それをぶちこわす結びの部分にも要注目。

 第5章-12.リースの急逝 の巻。

 次回もまた読んでくれよな!

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