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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 53

第5章-14.ライプツィヒ、1838年 イタリアとドイツ

 もし僕が君だったら、受難週の祝祭のためにローマを訪れて、昨日あたりとぼとぼとそこを発ったところでしょう。君もそうしたんじゃないかとずっと思っています。
 棕櫚の主日には、僕はいつも教皇の礼拝堂と黄金の棕櫚の枝に思いを馳せます。式典の次第や壮大さは、僕が今まで見た中で最も荘厳で素晴らしいものです。
 君も同じものを見て同じように考えているといいなと思います。

 君が教えてくれたミラノでの出来事と君のそこでの近況、リストやヌーリ、ピクシス達パリの仲間たちとそこで再会するなんて、笑っちゃいました。
 でもそれら全てとても興味深いことに違いありません。いつか君がライプツィヒに直接会いにきてくれて、それらの『事件』を全部話してくれるのが、今からもうとても楽しみです。話題はいくらでもあるでしょう。

 それから君が描き出していた、某所の宮廷楽長の至高の幸福と、ドイツ国民の至高の忍耐について。あれはおそろしく真実味のある表現で正に的確でした。
 この冬の間に、僕はそれをいくつか垣間見ました。某所の役職のケースは一例です。
 彼らは私を(何人かの新聞がそう書いたからか)就任させたかったようですが、彼らは音楽家とちゃんと腹を割って話し合うことなどしたくないらしく、私の方から立候補させようとまたもや華麗な策略を使ってきました。
 ​でも結局彼らもきちんと率直に対話せざるを得なくなりましたし、その返礼として僕も喜んでその申し出をお断りしました。とても丁寧にね。
 だから君のあの惨憺たる描写がいかに正しかったか、改めて思い知りました。

 しかしそれでも、我らがドイツに何かしらの魅力があることは確かです。何かはよく分からない、だけど僕を惹きつけてやまない何かが。君にもそこは同意してもらいたいところです。
 僕は昔からこれを言い続けて、君ももう200回は聞いただろうし、400回は論争しましたね。

 確かに君が言う通り、イタリアの劇場の方がドイツのものよりずっと優れているし活気もあります。でもそれは僕たちが発展させます、君にもそれを手伝ってほしいのです。
 A氏とその取り巻き達は絶対にそんなことをしてはくれません。彼らは荷馬車を泥沼の奥深くまで導くだけ導いて、あとは轍も残さず消えるでしょう。

解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 少し更新に時間をいただいてしまい申し訳ない。前回に引き続き、1838年4月14日付の、メンデルスゾーンからヒラーへの手紙を紹介している。
 今日は中盤部分の訳文を掲載した。

 メンデルスゾーンは旅行好きな音楽家で、10代の頃からヨーロッパ各地を旅行して回っている。
 中でもスイス・イタリア・スコットランドあたりはお気に入りのようで、旅先で描いた絵画や、作曲のモチーフにしていることもよくある。
 そんなお気に入りの場所イタリアで音楽の勉強をしている親友ヒラー。自分ももちろん息子が生まれたばかりで幸せいっぱいだけれど、イタリア滞在中のヒラーへの羨望がにじみ出ている気がする。

 今回の冒頭部分から記述のある「受難週」だが、キリスト教文化に全く馴染みのない自分は、いつも通りwikipedia先生に頼るしかなかった。

〇受難週
 イエス・キリストがエルサレムに入城した日から、復活するまでの1週間。宗派によって呼び名が違うのでややこしいが、つまり復活祭(イースター)前の1週間。
 人類の原罪を一身に背負って受難したキリストに思いを馳せる、重要な祝祭日。
 毎年日付が変わる移動祝祭日だが、復活祭は必ず日曜日なので受難週の始まりも日曜日になる。
 この日曜日を、「棕櫚の主日」と呼ぶ(宗派がある)のは、ロバに乗って入城したキリストを、人々がナツメヤシの枝を持って歓迎したというエピソードから。
 ちなみに、作曲者の死後忘れられていたところをメンデルスゾーンが復活させたことで有名なバッハの「マタイ受難曲」は、まさにこのキリストの受難について描かれており、メンデルスゾーンの蘇演後は、聖金曜日にこの曲を演奏するプロテスタント教会が多いとのこと。

 キリスト教徒が最も大切にする祝祭日「聖金曜日」(受難日/キリスト磔刑の日)の直前の日曜日だ。
 今まで参加の機会が全くなく、キリスト教のイベントごとに非常に疎いのだが、重要な祝祭日であることはよく分かった。
(今回受難週のことを調べて初めて、イエスが復活したのが三日ではなく三日だったことを知ったレベルの無知)
 1838年の受難週は、4月8日(日)からスタートしたらしい。とぼとぼとローマを発った「昨日」は13日(金)でまさに受難日にあたる。ちなみにこの手紙が書かれた翌日(15日)がイースターだ。

 そしてローマと言えば、キリスト教(カトリック)の総本山。それはさすがに筆者でも知っている。きっとさぞかし大々的な祝祭が開かれるのだろう……と思ったら、メンデルスゾーンが説明してくれた。
 棕櫚の主日は、宗派によって呼び名がいろいろなのだが、底本で「Palm Sunday」となっていたためこの訳語を選んだ。
 ローマでのイベントでも、黄金の棕櫚の枝がメンデルスゾーンの印象に残っていたようなので、ちょうどいいと思う。

バチカンニュース:ローマの棕櫚の主日(2018年)
https://www.vaticannews.va/en/pope/news/2018-03/pope-francis-palm-sunday-procession-mass.html

 現代でも、ローマでは棕櫚の主日に緋色のスータンをまとう枢機卿たちが黄金の棕櫚を掲げる式典が実施されているようだ。
 ヒラーが滞在しているのはミラノだが、このイベントのためにローマまで足を延ばしているんじゃないかな~僕だったら絶対そうするな~きっと君もそうだよね~いいないいな~! というメンデルスゾーンの気持ちが見え隠れする。

 パリの仲間にミラノで再開する可笑しさに笑いつつ、ヒラーが手紙で語ったであろうエピソードを、直接会って聞きたいと話すメンデルスゾーン。
 手紙に書かれていないエピソードもたんまりあるでしょ? とのことだ。
 ヌーリさんについては、パリ編で説明したと思っていたがどうやらしていなかったようなので、簡単な説明を。

★アドルフ・ヌーリ(Adolphe Nourrit, 1802–1839)
 フランスのテノール歌手、台本作家、作曲家。
 声楽を同じく歌手であった父ルイ、マヌエル・ガルシアらに、作曲・作劇をロッシーニに師事。
 19歳でオペラデビューして以来、「コリントの包囲」、「エジプトのモーセ」、「ギヨーム・テル(ウィリアム・テル)」、「ポルティチの物言わぬ娘」、「悪魔のロベール」、「ユグノー教徒」など、パリで上演されたロッシーニやマイアベーアのオペラ作品の多くで主演を務めた。
 台本家としては「ラ・シルフィード」などを手掛ける。
 パリにおけるシューベルト歌曲の無二の歌い手として評価を得ていた。
 1838年にはナポリでデビューしたが、病による歌唱技術の衰えに絶望し、37歳の若さでコンサート遠征先のホテルから飛び降り自殺した。彼の葬儀ではショパンがオルガンを演奏した。

 さてここからは、ヒラーの手紙を受けての言葉のようだが、ヒラーからの手紙についてはまだ本文を探せていない。もう何度目かのぼやきになるが、往復書簡が欲しい!!

 この前の手紙でメンデルスゾーンは、ヒラーの師フンメルの死後空席となっているワイマールの宮廷楽長に就くことを勧めていた。おそらくはそれにヒラーが答えた内容ではないかと推測する。
 ここに書かれたメンデルスゾーンの記述から逆推理すると、ヒラーの回答はこんな感じだったのではないだろうか。

・某所(ドイツのどこか)の宮廷楽長はいい御身分ですねェ(皮肉)
・あんな宮廷楽長で我慢できるドイツ国民は本当に辛抱強いですねェ(皮肉)

 現在ドイツ・ライプツィヒで音楽監督として活躍しているメンデルスゾーンは苦笑を禁じえなかったと思われる(笑)。
 イタリア・フランスの音楽が好みだったヒラーは、ドイツの音楽シーンが後れを取っていることを、オブラートに包まずあけすけに語ったのかもしれない。
 メンデルスゾーンも、自分の体験したエピソードを披露して概ね同意している。そこはフォローのしようがなかったようだ。

 自分の考えではなく新聞の意見を鵜吞みにして人事を考え、オファーを出さずに向こうから「やらせてください!」と立候補するように仕向けたがる、音楽家へ敬意を払わないお偉いさん。
 メンデルスゾーンやヒラーが生きた時代より1世紀前、モーツァルトの時代には、音楽家は言ってしまえば道化師と同じような扱いだった。
 貴族の家に招かれても入るのは裏口から、自分の表現したい芸術のためというよりは、貴族や教会から発注された通りの曲を書くサラリーマンだった。
 音楽史的にはベートーヴェンを経て、社会史的には民主化を経て、音楽家は芸術家としての地位を得たかのように見えたが、人々の意識は一朝一夕でがらりと変わるものではないということか。

 ヒラーは、そんな旧態依然としたドイツの楽壇よりも、自由の気質が強いフランスや、歴史的にいつも芸術を牽引してきた活気あるイタリアの楽壇のほうが性に合うと思っていたのだろう。
 だがメンデルスゾーンは違った。ドイツの欠点は認めつつも、それでもドイツには抗いがたい魅力があるとはっきり書いている。ちょっと語弊があるかもしれないが、出来の悪い子ほどかわいい、みたいな気持ちがないでもないのかも。
 その考えは昔から変わらず、君はもう耳タコだろうけどね、と少しおどけてみせてからの、この一節がしびれる。

「確かに君が言う通り、イタリアの劇場の方がドイツのものよりずっと優れているし活気もあります。でもそれは僕たちが発展させます、君にもそれを手伝ってほしいのです。」

 活気を求めてイタリアやフランスへ出ていく方が、きっと簡単だろう。メンデルスゾーンはお金も人気もあるし、フランスはともかくイタリアは好きだし。筆者は時々、メンデルスゾーンがイギリスを拠点に活躍していたら音楽史は少し変わっていたんじゃないかと思うことがある。
 でも、それでもメンデルスゾーンはドイツを選んだ。活気ある楽壇へ向かうのではなく、自分たちの手でドイツの楽壇を発展させることを選んだ。
 アツい。アツすぎる。

 こんなにアツい言葉を向けるのは、メンデルスゾーンからヒラーへの信頼と友愛があってこそだろう。
 ヒラーがこの本の序文で「彼と私の関係性は特別だった」「ただ仲の良い関係ではなく、真の交友がそこにはあった」と語っていた、その一端を見た気がする。
 こうも熱烈なアプローチを受けたヒラーは、後半生をドイツ楽壇のために捧げることになる。

 ちなみに、ボロクソに言われているA氏については、まだ誰だか分からない。「手伝うどころか状況を悪くするだけ」という表現の、なんと秀逸なことだろうか(笑)!

次回予告のようなもの

 前回に引き続き1838年4月14日付けの手紙を紹介した。この手紙は、次回紹介する分で終わりだ。
 今回紹介した部分で、ドイツよりもイタリアの方が芸術面で優れている点が多いことは認めながらも、それでもドイツに魅力を感じていると語ったメンデルスゾーン。
 だが後半には、愛着があっても全てを許せるわけじゃないということがヒシヒシと伝わってくる残念エピソードが、地名も伏せずに語られる(笑)。

 第5章-15.『聖パウロ』ドレスデン初演の愚痴 の巻。

 次回もまた読んでくれよな!

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