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【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第5回|環境のなかで人間と病をみる ヒポクラテス『古い医術について 他八篇』|山本貴光

 トゥキュディデスと同じく紀元前五世紀から紀元前四世紀ころ、古代ギリシアにはヒポクラテスという医者がいた。現在でも「ヒポクラテスの誓い」とか「人生は短く、技術は長い」といった言葉で知られているかもしれない。

 これは伝ヒポクラテス、つまり本人がそう書いたかどうかは定かではないけれど、そう伝えられてきたという言葉だった。ときどき「人生は短く、芸術は長い」という形で記されることもある。技術と芸術では意味がだいぶ違う。どうしてそんなことになったのか。

 もとは古代ギリシア語で書かれたものが、ラテン語では手短に「ウィータ・ブレウィス、アルス・ロンガ(vita brevis, ars longa)」と訳された。文の前半と後半は入れ替わることもあって、英語では”Art is long, life is short”と訳されたりもする。日本語では、この「アルス」や「アート」をどう訳すかで意味も変わるわけである。

 この点については、もとの古代ギリシア語を見るとはっきりする。「アルス」「アート」の原語は「テクネー(τέχνη)」といって、これは「テクノロジー」の語源となった言葉。技とか術、技術、やり方といった意味をもつ。ヒポクラテスが医者であったことを思えば、ここでは「芸術」ではなく「技術」と訳すのがふさわしい。医術では学ぶべきことが山ほどあって、習得するには時間がかかる、というわけだ。

 とはいえ、言葉は往々にして一人歩きするもの。それに芸術も習得には長い時間を要する。というよりも、何事にせよ経験を重ねるほど、簡単に習得したと言えないと自覚されてくる、というのが実際のところだろう。古代と比べて寿命こそ延びたものの、なにかを学びたいと願う身からすれば、いまでも人生が短いことに変わりはない。

 ところで伝ヒポクラテスのこの言葉の原文は、柳沼重剛編『ギリシア・ローマ名言集』(岩波文庫赤123-1、2003)でも確認できる(42ページ)。これは古代ギリシアやローマの名言を、原文と日本語訳で提示して解説をつけた便利な本である。


 さて、ヒポクラテスだが、その生涯については定かではない。紀元前460年頃にギリシアのコス島で生まれたと言われている。同時代人には、哲学者として有名なプラトンもいる。ヒポクラテスや門下の人たちが書いたと思われるテキストが伝存していて、「ヒポクラテス全集」とか「ヒポクラテス集典」と呼ばれる。そんなふうに必ずしもヒポクラテス一人に帰されるわけではないので、「ヒポクラテス派の書き手たち(Hippocratic writers)」と表現されることもある。ここでは表記を簡単にするために「ヒポクラテス」に代表させておこう。

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 岩波文庫には『ヒポクラテス 古い医術について 他八篇』(小川政恭訳、青901-1、1963)という本がある。青の900番台は自然科学関連の本を収める。ヒポクラテスの著者番号は901番でその筆頭。収録された九篇のタイトルは次のとおり。

空気、水、場所について
神聖病について
古い医術について
技術について
人間の自然性について
流行病 一
流行病 三
医師の心得
誓い

 最初の五篇はタイトルに示されたテーマについての論考。「流行病」と題された二つのテキストには具体的な患者の症状と経過が記録されている。最後の二篇は、医術に関わる者の心得と倫理を説いたもの。あとで詳しく見るように、病気の原因を探るにあたっては、人間とはどのようなものかを弁えた上で、個々の患者の状態はもちろんのこと、空気や水や場所といった環境や、食事や生活などの影響も考慮すべしというヒポクラテスの姿勢が随所に示されている。

 ついでながら、『古い医術について 他八篇』の巻末には「付録」として「ヒポクラテス作品目録」が掲載されている。そこには偽作とみられるものやタイトルだけ伝わっているものなども含めて170の作品が並ぶ。

 かつては原典訳や他の言語からの重訳を含め、日本語で読める『ヒポクラテス全集』も出ていたが、目下のところ新刊で手に入るヒポクラテス作品は多くない。

 他国で刊行されているものでは、ローブ古典叢書(Loeb Classical Library, Harvard University Press)ビュデ古典叢書(正式にはフランス大学叢書、Collection des Universités de France, Les Belles Lettres)などにヒポクラテスの著作が数巻にわたって解説つきで収録されていて比較的手に入れやすい。古い版でよければインターネット上の各種アーカイヴで閲覧できる。

 そんなヒポクラテスだが、感染症についてなにか言っているだろうか。


 まず表題作の「古い医術について」という文章で、ヒポクラテスの医術にかんする考え方を確認しよう。

これまで医術について論じたり書いたり試みてきた人々は、その所論のために自分勝手な仮定をたてている。すなわち熱・冷・湿・乾その他をたて、このことによって、人間にとって病気や死の原因となるものを同一の原理(アルケー)へしぼって行き、すべてに共通の一、二を仮定している。だから彼らはその主張する多くの新規なことにおいてもちろん明らかに誤っている。しかもこれはとりたてて非難に値する。というのは、こと実地に用い行われる技術に関するからである。
(同書、59ページ)

 病気の原因として勝手な仮定をこしらえて、しかもそれが間違っているとしたら、人を治療する技術にかかわるのだから駄目でしょうという指摘だ。もっとも、誰も見たことがないものを論じるような場合なら、そうした仮定も必要になるかもしれない。ただ、そうなるとその仮定が正しいのか間違っているのか、誰にも確認しようがないのも事実だ。

 他方で、ヒポクラテス自身は、病気とは人間を構成する四種の体液の調和が乱れることで生じるという「四体液説」を信じていた。そう思うと、後世の目からは五十歩百歩に見えなくもない。とはいえ、そうした体液の理論にしてもどうやら観察に基づいたもののようだから、確認しようのない空理空論と一緒にしては気の毒かもしれない。「医術は空虚な仮定を必要としない」(同書、60ページ)というのがヒポクラテスの基本姿勢である。では、なにが必要なのか。

 要約すればこうなる。まず患者の状態をよく観察すること。目に見えるものはもちろんのこと、音や匂いなどの知覚の手がかりによって、身体の感覚を通じて病気の原因を見定める必要がある。また、似た症状でも人によって多様な違いがある点に注意すること。そもそも人はそれぞれ体質も年齢も体型も違う。だから食事療法を行う場合でも、だれかれ構わず一律同じようにするのでは駄目で、その人の状態にあった食べ物を与える必要がある。

 これに関して「流行病 一」で、病気の診断で確認する要素をこんなふうに列挙している。せっかくの機会なので引用しておこう。

万人に共通せる体質と個別的な体質、病気、患者、投与された食餌、その投与者(略)、さらに全般的季節天候および個々の気候・地帯、各人の習慣、食生活、職業、年齢、話しぶり、立居振舞い、寡黙、思想、睡眠・不眠・夢の種類と時間、引っ張る、掻く、泣く、病の昂進、便通、尿、唾、嘔吐、どんな病気からどんな病気へどれだけの継起があるか、移行が分利へと向かうか死亡へと向かうか、汗、悪寒、冷え、咳、くしゃめ、しゃっくり、呼吸、おくび、放屁(無音もしくは有音)、溢血、出血。これらから、およびこれらが原因で何がおこるかを、考察すべきである
(同書、133ページ)

 人間一般に共通することと、環境や個人の違いをともに考慮している。生活や状態、生理や心理など、そのこまやかさに驚かされる。人間を環境も含めて総合的に観察する構えだ。

 こうした態度は「経験主義」と呼ばれたりもする。本当かどうかも分からない机上の理屈ではなく、個々の患者にたいする観察と経験に基づく知識を用いて治療するという姿勢だ。それだけに「小さな誤差しかない程度にまで正確な知識を得ることは骨の折れる仕事である」(同書、66ページ)という言葉もいっそう痛切に響く。

 また、ヒポクラテスが、似たような病を煩う人たちについて、個別に事細かな病状を記述するのも、こうした考え方に基づいてのことだろう。「流行病」と題された二つの文章では、患者の様態とその変化について、日を追って観察されたことが細かく記されている。


 冒頭でも触れたように、ヒポクラテスは歴史家のトゥキュディデスの同時代人と目されている。となれば期待したくなることがある。前回見たようにトゥキュディデスは『戦史』の第2巻で、ペロポネソス戦争の最中にアテナイを襲った疫病に触れていた。それどころか、人から人へと接触によって感染することも記されていたのをご記憶かもしれない。

 では、ヒポクラテスはどうか。優れた観察者であり、経験に基づいて診断を下す彼なら、トゥキュディデス以上にこのアテナイの疫病の性質を見てとっていたのではないか。

 そこで改めて注目しておきたいのはヒポクラテスのものの見方だ。現代の言葉を使えば、彼は生態学的(エコロジカル)に病気を捉えている。人間の体だけではなく、人間が生きている環境との関係をセットにして考えるわけだ。

 そうした発想は、具体的には「空気、水、場所について」に示されている。ヒポクラテスはそこで、正しい仕方で医学に携わるのであれば、季節と寒暖の変化、土地による風の吹き方、水の性質を知るべきだと指摘している。「医者は未知の町に着いたならば、その町の位置が風の点と太陽の昇りの点からいってどうであるかをよく吟味しなければならない」(同書、7ページ)と言われるのはそのためだ。人間の状態は、その土地の季節・風・水の状態に影響を受けるのだから、これを考慮に入れるべしというので、同論では具体的に土地による違いも検討されている。ヒポクラテスの医学の基礎には、こうした環境のなかの人間という観点がある。古代世界にこうした見方がどのくらいあったのか知らないのだが、これは卓見だと思う。

 実際、後の人文地理学や風土論など、自然と人間の関係を考察する学問において、ヒポクラテスの見識は高く評価されている。例えば18世紀ドイツの思想家、ヨハン・ゴットフリート・フォン・ヘルダー(1744-1803)は、「風土(Klima)」という概念を包括的に捉えて、風土が人間にどんな影響をもたらすかを検討している。とりわけ未完の大著『人間史哲学考(Ideen zur Philosophie der Geschichte der Menschheit)』(1784-1791)では、ヒポクラテスの「空気、水、場所について」に触れて「風土についての最高の書き手(Hauptschriftsteller über das Klima)」と絶賛している(同書第2巻、1786、115ページ)。

 ここで「風土」と訳したドイツ語のKlimaは、英語ならclimateで「気候」や「地域」とも訳される。古代ギリシア語の「クリマ(κλίμα)」に由来するのだが、面白いことにこの言葉の原義は地形などの「傾き」だった。地球の赤道から極までの傾斜も意味して、これは「緯度」ということになる。加えて辞書には「地域」という意味も載っている。辞書にはしばしば、この一語になぜこんなにいろんな意味があるの? と思うような語義が並んでいたりするけれど、これは比較的分かりやすいほうかもしれない。

 ところで、いま見たような語義では、どちらかというと土地や地域といった自然環境に焦点が当たっていた。これに対してヘルダーのいう「風土(Klima)」は、それこそヒポクラテス流に、自然が人間に与える影響も視野に入れている。先ほど書名を挙げた『人間史哲学考』という本は、大袈裟でなしに森羅万象と人間の関係を見てとろうとする野心作で、後の風土論にも大きな影響を与えたのだった。

 ここではもはや詳しく論じる暇はないが、和辻哲郎(1889-1960)はこのヘルダーの風土論を重視した人だった。その著書『風土――人間学的考察』(岩波文庫青144-2、1979;改版、2010/単行本は1935)では、ヘルダーの論を中心に据えた「風土学の歴史的考察」という章を書いている。そこでもヘルダー(和辻の表記ではヘルデル)の見立てを紹介しながらヒポクラテスを風土論の先達として登場させている。


 ヒポクラテスに戻れば、私が目にしたなかで感染症に最も肉薄しているように見えるのは「人間の自然性について」で病気の原因を論じたくだりである。ここはやはりヒポクラテスの言葉を見ていただこう。

諸々の病気は、あるものは食餌からおこるし、あるものは生きるために呼吸する空気からおこる。その各々の診断は次のようにすべきである。一つの病気によって多数の人々が同じ時期に捉えられるならば、その原因はもっとも共通した、万人が使用するものに帰すべきである。われわれが呼吸するものがこれである。
(同書、108ページ)

 同じ時期に多くの人が同じ病気にかかるとしたら、その原因は全員が呼吸している空気にあるという見立てだ。後知恵を承知で言えば、感染症を捉えるまであと一歩に見える。同じ文章の少しあとで、次のようにも述べている。

一種類の病気の流行が生じたばあいは、明らかに食餌ではなくしてわれわれが呼吸するところのものがその原因である、そして明らかにこのものが病的な毒気を含んでいて害を与えているのである。
(同書、109ページ)

 ここでは省略したが、人がそれぞれ違うものを食べているのに同じ病気にかかるとしたら、食べ物が原因ではないという前提がある。

 いまでこそ私たちは、コレラや細菌性赤痢、腸管出血性大腸菌感染症(O157)、E型肝炎ウイルスなど、食べ物を経由する感染症があることを知っている。だが、ヒポクラテスの時代には、肉眼で確認できない細菌やウイルスの存在は知られていなかったことに注意しよう。それに現在でも、ウイルスが知覚できないために、さまざまな誤解や混乱が生じているのはご存じの通り。もしウイルスや細菌が空中に漂ったり皮膚についていたりするのが目に見えたら……という想像はやめておこう。ここではヒポクラテスの前提にのって彼の考えを追ってみる。

 では、人それぞれ内容のちがう食事をとっており、それでもみなが同じ病気にかかるとしたら原因はなにか。それは、みなが同じように吸い込む空気である。空気になにか「病的な毒気」が含まれているという推論だった。ここは肝心な箇所なので原文を確認してみよう。

 先ほどの引用文で「毒気を含んでいて」と訳されていたのは、「ノセーレーン・ティナ・アポクリシン(νοσηρήν τινα ἀπόκρισιν)」という語で、「病をもたらす呼気」とも訳せようか。そうした空気によって「病気の流行」が生じる。

 気になる「流行」のほうは、「エピデーミア(ἐπιδημία)」の訳語。この古代ギリシア語を語源とする英語の「エピデミック(epidemic)」は、病気や思想や風俗などの「流行」という意味をもつ。今回の新型コロナウイルス感染症を通じて、よく耳にするようになった「パンデミック」という言葉は、この「エピデミック」の姉妹語で、やはり古代ギリシア語の「パンデーミア(πάνδημία)」に由来する。これは「全ての人」という意味だった。目下のコロナ禍は、文字通り地球規模でありパンデミック状態である。

 ついでながらエピデミックとパンデミックに共通する「デミック」に相当する「デーモス(δῆμος)」は「民衆」「市民」という意味。例えば「民主主義」と訳される「デモクラシー(democracy)」にもつながっている。古代ギリシア語を視野に入れておくと、こんなふうに日本語ではバラバラに見える言葉のあいだにつながりが見えるようになる。

 少し細かい話になった。ヒポクラテスに戻ろう。

 なにしろ空気は生命にとって重要なものだ。ヒポクラテスは「神聖病について」のなかで、人が吸い込んだ空気はまず知性を司る脳に行って、それから体の各部にわたると書いている。その見立ての是非は措くとして、空気はそれほど重要なものと見られていたわけだ。

 では、流行病の原因が、病をもたらす空気だとしたらどうすればよいか。ヒポクラテスの対処はこうだ。

 まず、食事はその病気の原因ではないので変更しない。ただし少しずつ量を減らすようにと指示している。なぜだろう。彼はこう考えている。

空気の身体への流入はできるだけ少量に、かつ他の場所の空気を吸うように意を用いなければならない、それには病気が発生した場所からできるだけ他へ移り、身体をやせ細らせねばならない。やせ細っているならば多量に頻繁に空気を吸う必要がないからである。
(同書、109ページ)

 空気が病気の原因であるなら、その病気が発生した場所、つまりその場所の空気から離れなさいというわけだ。また、そうした空気が原因なのだとすれば、体に取り込む空気の量を減らせばリスクも下がるという発想である。なぜ食事を減らせと言うのかもこれで分かる。食事を減らせば体が細くなり、そうすれば空気を吸う量を減らせるからだ。その発想はなかった。

 病気をもたらす原因が空気だと前提した場合、これは理に適った考え方だ。私はこのくだりを読んで、宮崎駿の漫画やそのアニメーション版『風の谷のナウシカ』を連想した。腐海の森と呼ばれる土地は、人が吸い込むと体を害する瘴気に満ちている。だからその世界の住人は、なるべくそこに近寄らず、瘴気を吸わないようにしている。

 空気を病気の原因とみるヒポクラテスの考え方は「ミアズマ説」と呼ばれるが、この「ミアズマ(Miasma)」は日本語で「瘴気」と訳される。語源は例によって「汚染」を意味する古代ギリシア語だ。

 以上がヒポクラテスによる流行病の原因と治療についての説明である。ご覧のように彼は、空気に原因を求めはしたが、それが人から人へと「感染」するとは述べていない。実際そのつもりで「ヒポクラテス集典」を探してみても、トゥキュディデスが書いていたような感染についての説明は見当たらない。いや、私の探し方が拙いだけで、実際にはどこかに記されているのかもしれない(お気づきの方はご示唆をいただければ幸いです)。

 また、トゥキュディデスが記録したアテナイの疫病について、なぜ同時代に医術を実践していたヒポクラテスが触れていないのかという疑問もある。これについては古来いろいろな説が唱えられてきたようで、諸説を比べてみると面白い。ここでは手が回らないのでまたの機会にしよう。


 20世紀の核実験や公害問題などの環境汚染、地球温暖化問題などを通じて、人類はようやく環境のなかで生きる人間というヒポクラテス流の見方を共有しつつあるところだ。

 他方で、私たちはヒポクラテスの時代と比べていっそう複雑な時代を生きている。この100年ほどだけを見ても、19世紀末には約16億人だった世界人口が、いまでは77億人まで増えて、「人口爆発」と言われたのはご存じのとおり。また、地球規模での交通網も発展して、人やモノの移動を通じて世界各地がつながりあっている。加えてネットなどの通信手段の普及によって、以前にも増して虚実の定かならぬ情報やデータが時々刻々飛び交い、人びとの心理や行動に影響を及ぼしあっているところ。

 それだけに、こと感染症については、「空気、水、場所について」で指摘されていた要素に加えて、各種の社会制度や技術を含む人間集団の活動も考慮しなければならない。それこそ第2回で取り上げたカレル・チャペックの『白い病』ではないが、人間はときとして社会が疫病に命を脅かされているにもかかわらず、政治や経済といった別の価値を優先することがある。その意思決定を行う政治家や経営者の持っている知識や考え方もまた、人びとの健康や生命に多大な影響を及ぼす要素であるのを見落としてはならないだろう。

 こうした状況を検討する上では、医学的に更新された知識は別として、人間を総合的に捉えようとするヒポクラテス流の見方、「環境のなかで生きる人間」という生態学的な視点が役立つはずだ。自然環境はもちろんのこと、人間がつくる社会や技術の環境も含めて、人間と人間をとりまく各種の要素とのあいだに一体どのような関係があるのか、それらは互いにどのような変化をもたらすのか、その可能性を考慮に入れるわけである。

 では、目下の状況で、人間の生態(エコロジー)をどのように捉え直すことができるだろうか。皮肉なことにと言うべきか、新型コロナウイルス感染症の影響によって、私たちはそうでもなければあまり意識せずにいたこの課題に取り組みやすい状況に置かれている。見えないウイルスの存在を前提に、従来の人やモノの関係が多方面について見直されている最中だ。加えて言えば、仮に近い将来、今回の感染症を抑え込むことができたとしても、この先いつ同様の出来事が生じるとも限らない。そうした可能性を念頭に置いて社会と暮らしを組み立て直すことになるだろう。それこそ「コロナの時代の想像力」が大いに必要とされる仕事なのである。

*この文章を書くにあたって以下の文献を参考にした。
Francis Clifton, Hippocrates upon Air, Water, and Situation; upon Epidemical Diseases; and upon Prognosticks, in Acute Cases especially. to this is added (by way of comparison) Thucydides’s Account of the Plague of Athens, 1734.
 18世紀のイギリスの医師フランシス・クリフトンが、ヒポクラテスの「空気、水、場所」他、流行病に関する文章を英訳し、トゥキュディデスの『戦史』からアテナイの疫病に関する記述を抜粋・翻訳して加えたもの。冒頭に置かれた「序文」で、ヒポクラテスはアテナイの疫病について論じたか否かという問題について検討を加えている。

・Jacques Jouanna, “Cause and Crisis in Historians and Medical Writers of the Classical Period,” in Edited by Philip J. van der Eijk, Hippocrates in Context: Papers read at the XIth International Hippocrates Colloquium University of Newcastle upon Tyne 27-31 August 2002, BRILL, 2005, pp. 3-27.
 古代ギリシアの医学を専門とするジャック・ジュアナは、この論文で、ヒポクラテス派の文章と、ヘロドトスやトゥキュディデスといった歴史家が病気や医術について書いた文章とを比較検討している。また彼は、本文中で触れたビュデ版「ヒポクラテス集典」の翻訳・解説も数多く担当しており、ヒポクラテスを読みたい人にはとても参考になる。

・Jordi Crespo Saumell, “New Lights on the Anonymus Londiniensis Papyrus,” in Journal of Ancient Philosophy, Vol. 11, No. 2, 2017, pp. 120-150.
 紀元1世紀ころに古代ギリシア語で書かれた医術に関するパピルス文書を検討した論文。そのなかでヒポクラテスの「人間の自然性について」に触れた箇所で、エピデミックについてのヒポクラテス文書での扱いを検討している。「ヒポクラテス集典」では、接触による病気の伝染(contagion)について論じられていないと指摘されており、ここでもトゥキュディデスの記述が引きあいに出されている。

・Franz Mauelshagen, “Ein neues Klima im 18. Jahrhundert,” in Zeitschrift für Kulturwissenschaften, Bd. 1, 2016, S. 39-58.
 「18世紀における新しいクリーマ」と題されたこの論文では、本文でも触れた古代ギリシア語の「クリマ(κλίμα)」に由来するドイツ語の「クリーマ(Klima)」(やフランス語のclimat、英語のclimate)という概念が、18世紀を通じて従来の地理学の用法から、気候学(Klimatologie)という新しい用法へと転じてゆく様子を追跡していて面白い。この論文を掲載している『文化学誌』2016年第1号は「ロマン主義のクリーマトロジー」という特集を組んでいる。
山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
twitter @yakumoizuru

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