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【連載】岩波文庫で読む 「感染症」第10回|見えない原因を追い詰める パストゥール『自然発生説の検討』ほか|山本貴光

 人類はいつ頃、ウイルスの存在を知ったのだろう。

 例えば、現在ではインフルエンザはウイルスが原因であることが分かっている。では、そのように判明したのはいつのことだろうか。

 インフルエンザといえば、およそ100年前に世界を席巻した、いわゆる「スペイン風邪」はその一つだった。もっとも「スペイン風邪」という名前からして紛らわしい。スペインで始まったわけでもなければ、風邪でもないのだから。

 それは1918年から世界的に大流行したインフルエンザだった。第一次世界大戦末期にあたる時代だ。世界全体で約5億人とも6億人とも言われる人びとが感染(人口の30%相当)し、見方によって幅はあるものの5千万人から1億人が亡くなったという推定がある(人口の5%相当)。日本でも約2300万人の感染者を出し、38万人が亡くなったと見積もられている。

 いま日本についてお示しした数字は、内務省衛生局編で1922年3月に発行された『流行性感冒』による。国内外の感染状況を広く統計データを活用しながらまとめた報告書で、通信手段も限られていた時代によくぞここまでと驚くような労作である。その冒頭は、ヒポクラテスの名前を引きながら、人類史における流行性感冒の記録を年表にまとめるところから始まる。同書は現在、平凡社の東洋文庫(2008)などで読むことができる。

 それはさておき、その当時、インフルエンザの原因はまだ不明だった。その病因がウイルスであると特定されるまでの経緯を、医学史家マーク・ホニグスバウムの『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』(鍛原多惠子訳、NHK出版、2021〔原書は2019-2020〕)を頼りにかいつまんで見ておこう。というのも、そのエピソードには目に見えないものを捉える難しさや人間の思い込みがもたらす影響などがよく現れているからだ。

 ホニグスバウムは、スペイン風邪の話を、アメリカとイギリスの陸軍駐屯地で起きた出来事から始めている。そうした駐屯地で、正体不明の感染症が広がった。いまから見れば、各地から集まった人びとが、劣悪な衛生環境のなかで密集して生活するという状況は、著者に言わせれば「未曾有の免疫実験」の場だったわけである。加えてアメリカとヨーロッパのあいだを兵士の集団が移動することで、海を越えて感染が拡大することになった。

 そんななか、戦争中の各国は、自軍の兵士のあいだに広がるエピデミック(限られた地域や集団内での感染の流行)についての報告が外に出ないように報道統制していたところ、中立の立場をとったスペインではそうしなかったために、スペイン人ばかりが罹患していると思われたという。それで「スペイン風邪」と呼ばれるようになったのは、無理からぬこととはいえとんだ誤解の元もあったものである。

 また当時は、前回のインフルエンザで100万人もの人が亡くなった「ロシア風邪」のパンデミック(1889-1890年)からおよそ30年が経っており、当時を覚えている人も減ったせいか、インフルエンザは軽い病気、風邪のようなものとみなされていたようだ。加えて医学者たちが、インフルエンザの原因を取り違えていたことも、パンデミックへの適切な対処を遅らせることになったと思われる(ただしこれは後世の目から見てのことである)。

 というのも、1892年にドイツの細菌学者リヒャルト・パイフェル(1858-1945)、あるいは北里柴三郎(1853-1931)が、インフルエンザの病原体を「インフルエンザ菌(Bacillus influenzae)」と指摘して以来、この線での検討が主流となる。パイフェルは、ドイツ細菌学の父、ロベルト・コッホ(1843-1910)の弟子でもあった。人びとの期待や信頼も集まる。

 これは科学に限らないことだが、人はしばしば主張の内容の妥当性ではなく、誰が主張しているかを重んじる。「あの人がいうなら確かなのだろう」という具合に。パイフェルの場合が実際どうだったかは分からないが、権威の主張とそれと相容れない研究者の主張があるとき、後者が軽視されるということは学問の歴史にもしばしば見られてきたことだった。

 パイフェルの仮説は、さまざまな検証の試みにもかかわらず確証には至らない。詳細は同書に譲るとして、最終的にはインフルエンザの原因は、細菌ではなくウイルスであることが突き止められる。

 だが、当時の光学顕微鏡では見えなかったウイルスをどうやって検知したのか。フランスのパスツール研究所で当時研究員として働き、後には発疹チフスの感染経路を特定したシャルル・ニコル(1866-1936)たちが次のような実験を行った。

 まず、インフルエンザを発症した人の気管支から痰をとる。これを細菌が通れないほど目の細かい陶器のフィルターで濾過する。この濾液にはインフルエンザ菌は入っていないはずだ。では、これをサルや人に注射するとどうなるか。果たしてサルとボランティアは、いずれもインフルエンザを発症した。濾過性ウイルス、つまり細菌ではなくフィルターを通るほど小さなウイルス(原義はラテン語で「毒」)が病原体であると彼らは結論した。

 これでめでたしめでたし、となれば話も早かったのだが、そうは問屋が卸さない。そもそも当時はそうしたウイルスを保存したり培養したりする手立てがなく、検証も難しい。パンデミックが収まれば、罹患者から痰などを採取するチャンスもなくなる。インフルエンザ細菌病因説が主流を占めるなかで、ウイルス説は認められずに終わったようである。

 結局インフルエンザ・ウイルスが分離・特定されるのは、1930年代を待つことになる。言い換えれば「スペイン風邪」のパンデミック時には、人びとはインフルエンザがウイルスによって引き起こされることを知らなかったわけである。

 こんなふうに感染症の歴史は、細菌やウイルスのように人の肉眼では見えないにもかかわらず、人体に影響をもたらすなにものかとの格闘の歴史でもある。岩波文庫には、そうした歴史の一端を知るための本が何冊か入っているので、ここでご紹介しよう。

 ポール・ド・クライフ『微生物の狩人』(上下巻、秋元寿恵夫訳、青928-1、928-2、1980〔原書は1926〕)は、微生物学の発展に貢献した科学者たちの列伝だ。レーウェンフック、スパランツァーニ、パスツール、コッホをはじめ、顕微鏡で拡大しなければ見えない微小な生物を研究した人びとの生涯と仕事を案内する読物である。

ポール・ド・クライフ『微生物の狩人』(上下巻、秋元寿恵夫訳、青928-1、928-2、1980)

 同書にちょっと問題があるとすれば、いささか面白過ぎることだろうか。というのも、この本が読者を引き込む大きな魅力は、登場する人物や研究への興味もさることながら、それを書き記すポール・ド・クライフの書きぶりにある。例えば、レーウェンフックについて書かれたくだりをちょっとご覧いただこう。

その日彼が見つけたものこそ、この物語の端緒となるものである。レーウェンフックは気違いじみた観察家であった。さもなくては誰が、空からたった今落ちてきたばかりというきれいな混じり気のない雨滴などにレンズを向ける者があろうか? 水の中にいったい、水以外の何がはいっているというのだろう? 彼の娘マリア――彼女は十九歳であったが、いくらか気がへんになりかけていた父親にずいぶんと気をつけていたのである!――が、一本の小さなガラス管をとってこれを炎の中で真っ赤に熱し、髪の毛ほどの細さに伸ばしている父の姿を眺めているようすが、想像できるではないか……マリアは父の味方であった――わからずやの隣近所の人たちが父を嘲弄するならするがいい!――だがいったい、その髪の毛ほどの細さのガラス管で彼は何をたくらんでいたのだろう?

同書上巻、16ページ)

 こんな具合で、娘マリアの内心の声まで生き生きと記されている。ここでは引用しなかったが、このあと、雨滴をレンズで覗きみ、そこに生き物がいることを発見したレーウェンフックがマリアに呼びかける驚きの声なども記されている。「その場にいあわせたんですか?」と言いたくなるような、見てきたような書きぶりなのである。訳文の調子のよさもあって、落語を聞いているような心持ちで楽しめる。

 このような書き方自体が拙いというわけではない。読者を楽しませながら、エピソードを物語として伝えるという点では優れた工夫だ。ただ、少し慎重になって、実のところレーウェンフックはなにを書き残したのか、という点を考慮する場合、ポール・ド・クライフはいったいなにを証拠にこのような書き方をしているのかという妥当性が気になってくる。著者はそうした点を特に示してはいない。

 というわけなので、実際はどうだったのかという点については、少し眉にツバして読む必要がある。とはいえ、登場する人びとが謎に取り憑かれて、試行錯誤しながらその解明に勤しむ姿は、読者をすっかり虜にしてしまうだろう。実際、少年の日にこの本を読んで科学の道を選んだという人もあるようだ。

 もう1冊は、先ほども名前の出たルイ・パスツール(1822-1895)の名著『自然発生説の検討』(山口清三郎訳、青915-1、1970〔原書は1861〕)だ。

ルイ・パスツール『自然発生説の検討』(山口清三郎訳、青915-1、1970)

 パスツールは、コッホとともに近代細菌学の祖とされるフランスの科学者である。はじめは結晶構造などの化学研究から出発して、後に微生物学や細菌学のほうへと足を踏み入れてゆく。そのきっかけとなった逸話が伝えられている。1856年、パスツールは実業家のルイ・ビゴの依頼で、アルコール製造上の問題にとりくんだ。この検討を通じて発酵と微生物の関係を発見する。発酵は無機的な現象である(裏返せば有機物は無関係)とする説が主流だった時代に、実際にはそれが微生物の働きによることを解明してみせたのだった。

 ここからもう一つの疑問が浮かんでくる。では、そうした微生物はどこから来るのか。古来の説として「自然発生説」があった。親がなくても生物が自然に湧いて出るという発想だ。現代人なら「そんな馬鹿な」と思うかもしれない。だが、古代ではウジやカエルといった生物がそんなふうに自然に湧いてくるという見方が西洋にも東洋にもあったのが分かる。

 そういえば、最近ではあまり見かけなくなった気もするけれど、一昔前にはバケツなどに水を入れて外においておくと、いつのまにかボウフラ(蚊の幼虫)が湧いている、という光景も珍しくはなかったように思う。なにも知らずにこれを見たら、水から湧いてきたと感じても不思議はない。

 時代とともに観察や研究が進んで、生物が自然発生するわけではないことが認められるようになる。ただし微生物についてはパスツールの時代、つまり19世紀まで決着がついていなかった。というのはご覧のようにパスツールが『自然発生説の検討』と書名に掲げていることからも窺える。なおも「検討」を要することだったわけだ。

 この本でパスツールはまず自然発生説の歴史を振り返っている。古代から中世にも自然発生説があったという点を手短に述べたあと、もっぱら16世紀以降から彼の同時代まで、自然発生説をめぐってどのような検討がなされてきたかを概観している。その延長線上で彼が生きた19世紀にいたってもなお自然発生説の是非について決め手を欠く状況が続いた様子が見えてくる。それはまさにパスツール自身が直面していた状況でもあった。

 この問題については、1860年にフランスの科学アカデミーが「周到になされた実験によって自然発生の問題の解明を試みること」という懸賞問題を提示している。パスツールはこれに取り組んだ。同僚からは、そんな研究にかかわりあうのはやめておけと忠告もあったというが、先ほど述べたように、発酵現象が微生物の働きによることを明らかにしたパスツールとしては、これらの微生物の由来を確かめずにはおけなかったわけである。

 そうして1861年にこの懸賞問題に応じて発表されたのが『自然発生説の検討』だった。正式なタイトルを『大気中に存在する有機体微粒子に関する報告書。自然発生説の検討』という。パスツールはそこで、自然発生説を退けて論争に終止符を打つためのいくつかの実験を考案し、その方法と実験結果をつぶさに報告している。

 大気中に有機体微粒子がどのくらい含まれているかを実験で確かめる。その上で、空気を熱処理した場合はどうか、別の条件ではどうか、という具合に一歩、また一歩と検証結果を強固なブロックのように積み上げてゆき、自然発生の可能性や曖昧なままに留まっていた仮説を検討にかけてみせる。実験の工夫の見事さも含めて、実に惚れ惚れとするような報告書なのだ。

 科学アカデミーは1862年に『自然発生説の検討』を受賞論文に選んだ。それは自然発生説に対する姿勢を決することでもあっただろう。

 最後にもう1冊、イリヤ・メチニコフ(1845-1916)の『近代医学の建設者』(宮村定男訳、青917-1、1968〔原書は1933〕)をここに並べておきたい。

イリヤ・メチニコフ『近代医学の建設者』(宮村定男訳、青917-1、1968)

 メチニコフはロシアに生まれて最後はパリで没した人で、免疫学に画期をなした白血球の食作用(食菌作用)の研究で知られている。動物学や微生物学の他、人類学的な研究、あるいは老化や長寿の研究にも励み、ブルガリアヨーグルトが長寿に寄与するという説を唱えている。それでいまでも例えば明治ヨーグルトのウェブサイトなどでも紹介されていたりする。

 学問分野の細分化がいまほど進んでいなかった時代にしばしば見られることだが、メチニコフも分野の壁のようなものを気にせず広く多様な関心をもった人だった。

 そういえば、先に触れたポール・ド・クライフの『微生物の狩人』でも1章をメチニコフに充てていた。その導入部でこんなふうに紹介している。

微生物狩りという仕事は、あきれ返るほどのばかばかしさや、みごとな思いつきや、正気の沙汰とは思われぬような矛盾撞着の一場の物語である。もし、そうしたものが微生物狩りの歴史であるとするならば、われわれが微生物に対して免疫になっているというのはどういうわけかに関する学問、これはじつはまだ揺籃期にあるといってよいくらいのものであれば、これについても同じことがいえる。というのも、いわばこの学問を基礎づけた人といってよいあのしじゅう興奮し続けていた研究者メチニコフ――このメチニコフという人がけっしてきまじめ一方の科学者の型ではなかったからだ。彼は、ドストエーフスキイの小説から抜け出してきたようなヒステリーの性格を帯びた人間といったほうがはるかに似つかわしい。

同書下巻、42-43ページ)

 ドストエフスキーの小説に登場する人物とはなんとも思わせぶりで、気になってきたかもしれない。続きはぜひ同書にあたっていただくことにして、メチニコフ当人の本に戻ろう。

 『近代医学の建設者』でメチニコフは、同時代人として目撃し、自らも貢献した医学の発展について語っている。彼はパスツール研究所で働いたこともあり、パスツール、リスター、コッホといった立役者たちとも交流があったようだ。それで彼らの仕事やその背景を書き留めていて、これがまた興味の尽きない回想なのだ。

 例えば「発酵と伝染病」と題された第2章では、当時の有機化学で有力視されていたユストゥス・フライヘア・フォン・リービヒ(1803-1873)の説がいかに大きな影響力を持っていたかを窺わせるくだりがある。簡単に言えば、リービヒは発酵や感染症の原因は、有機物とは関係なく、無機的な過程であると考えた。

 他方で、例えば感染症については、1840年にドイツの病理学者・解剖学者のフリードリヒ・グスタフ・ヤーコプ・ヘンレ(1809-1885)が、微小な有機体が原因であるとの仮説を示している。

 ところが「そのときはまだ一介の若い学徒であった彼の説は、リービヒのごとき知名の学者の権威によって砕かれた」(『近代医学の建設者』26ページ)とは、1860年代に研究生としてヘンレの下で学んだメチニコフの証言だ。

 知識やものの見方というものは、複数の人びとのあいだで共有されることで一種の常識のようなものとなる。そうした状態には便利で有益な面もある一方で、人の思考を硬直させる恐れもある。

 発酵についても同様で、「リービヒの考え方に従う発酵、腐敗および伝染病の説明は、批判を容れることを許さぬ教義とされていた」(同書、27ページ)という。

 リービヒやその支持者の側からはどう見えていたのかという点にも興味があるが、それはさておき、こうした状況で、実験を通じてリービヒ流の見方に変更を迫ったのが、先ほどのパスツールだったわけである。

 今次のパンデミックにおいては、SNSを通じて多様な人びとの意見が目に入るようになった。これは従来にはなかった新たな環境である。そこで新型コロナウイルス感染症についてのさまざまな意見を見ていると、「あの人が言うことだから信用できる」とか「あの人の言うことは信用できない」とか、つい属人的にものを見てしまいがちである様子も目に入る。

 実際にはなにが起きているのかという探究においては、人間の権威ではなく、対象の観察や実験・検証を通じて得られた知見に重きを置くこと――微生物学に関わるこれら3冊の本を読みながら、こんな言葉が思い浮かんだ。

*この文章を書くにあたって以下の文献を参考にした。
マーク・ホニグスバウム『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』(鍛原多惠子訳、NHK出版、2021)

アルフレッド・W・クロスビー『史上最悪のインフルエンザ――忘れられたパンデミック』(西村秀一訳、みすず書房、2004)
 今回のテーマに関しては、第13章「研究、フラストレーション、ウイルスの分離」に詳しい。

リチャード・ガンダーマン『[ヴィジュアル版]感染症の歴史――黒死病からコロナまで』(野口正雄訳、原書房、2021)
 第20章でパスツールを、第23章で「スペイン風邪」を扱っている。

William C. Summers, “Microbe Hunters revisited,” Internal Microbiology, Vol. 1, No. 1 (1998), pp. 65-68.
 1950年代に10代を過ごし、ポール・ド・クライフの『微生物学の狩人』に熱中したという生物学史・医学史の専門家、ウイリアム・C・サマーズによる同書の回想。科学史家の目で、『微生物学の狩人』の問題点も論じている。

『科学の名著 10 パストゥール』(長野敬編、竹内信夫+成定薫+中崎昌雄+山田隆子+長野敬+横張誠訳、朝日出版社、1981)
 アルコール発酵や狂犬病予防に関する論文の他、リービヒからの批判に応答した「リービッヒ氏の発酵に関する報告についての覚え書き」など、26の文章を訳出した本。現在は電子版で読むことができる。

紺野昌俊「臨床微生物学の礎を築いた人々――気道関連の微生物研究に携わった研究者達の技術と思索6」『モダンメディア』、第57巻第12号、2011
紺野昌俊「同7」『モダンメディア』、第58巻第2号、2012
 今回、「スペイン風邪」について記すにあたって主に参照したマーク・ホニグスバウムの『パンデミックの世紀――感染症はいかに「人類の脅威」になったのか』(鍛原多惠子訳、NHK出版、2021)では、「インフルエンザ菌」の発見をパイフェルに帰している(同書37ページ)。パイフェルが「インフルエンザ病原体(die Erreger der Influenza)」を報じた論文を掲載した『ドイツ医学週報(Deutsche Medizinische Wochenschrift)』1892年1月号には、北里柴三郎が「インフルエンザ菌(Influenzabacillus)」を報じた論文が掲載されており、両者の関係は必ずしも明確ではないようだ。紺野昌俊によるこの連載のうち「Richard PfeifferとShibasaburo Kitasato(その1)」と「同(その2)」と題された回で、今回触れているリヒャルト・パイフェル(Richard Pfeiffer)と北里柴三郎によるインフルエンザの病原体、あるいはインフルエンザ菌についての研究が論じられている。当時発表された原著論文の検討を通じて記されており、より詳しく当時の状況を見てみたい向きは「インフルエンザ菌とスペイン風邪(Spanish flu)」と題した第16回、第17回も含めて通読をお勧めしたい。

田口文章+滝龍雄+会田恵「インフルエンザ菌:誰が最初の発見者か」(『日本細菌学雑誌』第50巻第3号、1995)
 上記したインフルエンザ菌の発見者について検討した論文。

Jakob Henle, Von den Miasmen und Kontagien und von den miasmatisch-kontagiösen Krankheiten (1840).
 ヤーコプ・ヘンレが感染症について論じた論文。リンク先は1910年に医学の古典として再刊された版のデジタル版。

山本貴光(やまもと・たかみつ)
文筆家・ゲーム作家。
コーエーでのゲーム開発を経て、文筆・翻訳、専門学校・大学での教育に携わる。立命館大学大学院講師を経て、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授。
著書に『記憶のデザイン』(筑摩書房)、『マルジナリアでつかまえて』『投壜通信』(本の雑誌社)、『世界が変わるプログラム入門』(ちくまプリマー新書)、『文学問題(F+f)+』(幻戯書房)、『「百学連環」を読む』(三省堂)ほか。共著に『人文的、あまりに人文的』(吉川浩満と共著、本の雑誌社)、『その悩み、エピクテトスなら、こう言うね。』(吉川との共著、筑摩書房)、『高校生のためのゲームで考える人工知能』(三宅陽一郎との共著、ちくまプリマー新書)、『脳がわかれば心がわかるか』(吉川との共著、太田出版)ほか。
twitter @yakumoizuru

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