株式会社MINERAL

悩み続けた20代。回り道をしてたどり着いた先は、学生時代に大好きだった動画制作

僕が社長になった理由-川原 司さん-
小さいころから「夢は東京で社長になることだった」という川原さん。都会にあこがれる青森県の田舎の少年だったと言います。現在、動画制作の会社を経営する川原さんのキャリア形成は、かなり印象的でした。やりたいことにたどりつくまでの遠回りぐあいがハンパない(笑)。それでも、圧倒的な優しさにあふれた川原さんらしいエピソード満載のお話です。

2019年夏、”いわみんプロジェクト”として、社長や起業家、独立して活動している方を対象に100人インタビューを実施しました。彼らがどんな想いで起業し、会社を経営しているのか? その中での葛藤や喜び、そして未来に向けて。熱い想いをたくさんの人に伝えたいと思っています。

川原 司(かわはら つかさ)さん

株式会社MINERAL 代表取締役社長
青森県出身
ビジュアルアーツ専門学校卒業
フリーターを経て大手企業のコールセンターで頭角を現すも
初心を思い出し、映像制作会社を創設

常に周囲みんなのことを考えて行動し、
おもしろいことで人を笑わせる存在

 小学生のときは人前に出てリーダーシップをとるのが好きで、注目を浴びることも快感に思っていて、おもしろくなることを考えて実践することが大好きだったんです。「卓球がやりたいよね」って話になると、学校中スリッパを探して回って、来賓用のスリッパを見つけて、スリッパ卓球をやって怒られる。そんな子どもらしい子どもって感じでしたね。
 高校ではラグビー部に入るんですが、僕はいっつも補欠で、試合に出られるメンバーではありませんでした。でも、チームのみんな、さらに応援してくれる人たちや支えてくれる家族の人たち、みんなが幸せじゃないとダメだと思っていて。試合を応援するときのリーダーだったし、補欠なりに盛り上げないといけない場面なんかでは、みんなを笑わせるためにネタを考えて披露したりしていました。

 今考えると、全体の雰囲気を一歩引いた目で見て、そこに合わせて行動していたんだと思います。高校3年の時に、監督から「オマエがいたから、ココまで来られたんだ」と言ってもらえた時は、補欠だった自分を見ていてもらえたと思って、本当にうれしかったですね。 

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 一方、将来に関しては、ちょうど高校時代に映画にハマっていた時期があって、映像関係の勉強をしたいと思うようになりました。あこがれの東京のビジュアルアーツ専門学校です。学校ではいろいろ実践するチャンスもあって、ショートフィルムを作ってコンテストに応募なんかもしていました。雑誌の『ぴあ』で開催されたコンテストで賞をもらって、そのフィルムが映画館で上映されたりもしたんです。そのあたりは完全に天狗になっていたと思います(笑)。

就活をせずにそのままフリーター生活
自分のプライドと現実のギャップに気づいた20代後半

 みんなが就職先を決めていく中、僕はまったく活動をしませんでした。というのも、みんなの就職先というのは、たいてい映像製作会社のADとか下っ端なんです。そんなことは当たり前なんですが、「賞まで取った自分がそんな仕事できないよ。だって、オレは東京で社長になるんだから」という気持ちがあったんです。
 バイトしていたバーでバーテンダーをしたり、仲良くなったマジシャンチームなんかとつるんでステージづくりの手伝いなんかをしていました。セロっていう有名なマジシャンのチームだったので、これはいけるんじゃないか、と思って一度会社も作りました。マジシャンの派遣マネジメント会社です。ただ、財務部分がまったくわかっていなくて、2年で終わりました。

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 そんな適当な感じで生きてきて、ふと気が付くと20代後半です。友だちから「普通の仕事をしたことがないよね」と言われて、ハッとしました。このままじゃダメだと思い、今さら就職を考えるのですが雇ってくれる先はなかなか見つかりません。やっと見つかったのはKDDIのコールセンター。多くはクレームの処理です。

長いフリーター時代を経て、川原さんがやっと就職した先はコールセンターという映像とは全く違う世界。そんな職場で頭角を現し、認められていくようになります。ところが、自分がやりたいことと現在の仕事とのギャップに苦しむようになります。

まさかのコールセンターでの仕事で開花⁉
福島原発後の東京電力へヘッドハンティング⁉

 この仕事って本当にしんどくて、たいていの人が長く続かないんですよ、精神的に参っちゃって。ところが僕は、以前仲が良かった友だちがうつ病になってしまったことがあり、その子をどうしたら救えるのか? と考えていて、心療内科に相談に行ってみました。そこで、うつの人をケアするための付き合い方を教えてもらいたいとお願いして、その先生のもとに通うようになりました。
 そのときの経験もあって、こういった心理状態に陥る人やクレームを言う原因を科学的に分析し始めたんです。「人ってこういうことで怒るのか」「こう言ってあげると喜ぶんだ」とかいろいろと見えてきて、対応があまりにもうまいってことで、ほかの人にも活用できるようなクレームマニュアルを作らされました。4年後には100人の部下を持つクレーム処理部門のリーダーになっていました。

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 2011年、実績が認められたことで(笑)、東京電力コールセンターへ異動となりました。福島原発の事故のせいで、クレームの電話が鳴りやまない状態で、僕を含めさまざまな会社からクレーム処理の達人が集められました。それでも、ここの対応は本当に厳しいものでした。九州の方から福島原発のせいで、体調が悪化したというクレームまでくる始末。ただの嫌がらせ電話も驚くほど多かったのです。
 東京電力で働いてた時代は、クレーム対応はさほどうまく出来なかったです。仕事内容も煩雑でなかなか覚えられずにいました。

 でも、元々働いていたオペレーターのお姉様方が厳しくも優しく指導してくれて、初心に返って仕事をすることの大切さみたいなものを思い出させてもらいました。短期間でしたが、辞めるときに送別会みたいなのまで開いてもらって。。。あの方たちには、今でもとても感謝しています

当時の仲間ともう一度映像を作りたい!
その思いが機動力になって一念発起

 ちょうどそのころ、昔の映像仲間で集まる機会がありました。当時ADだった友だちが、ディレクターやプロデューサーになって、自分が撮った番組や作品の話で盛り上がっていました。「オマエは何をやってるんだ?」と聞かれて、いくらヘッドハンティングされたとはいえ、クレーム処理の仕事をやっているというと、みんな驚きます。「ぴあで賞をとって、映画館で上映までされた司が?」という目で見られ、自分を否定されたような気持になりました。

 30歳のときでした。「自分は20代に何をやっていたんだ? コレでいいのか? 悔しい!」という思いがわいてきて、まず今の仕事を辞めました。そして考えて考えた結果、どこかに転職するのは違うということはすぐにわかりました。自分は何をしたいんだろう? と考えたとき、学生のときのように、「仲間ともう一度フィルムを作りたい!」と思うようになったんです。そのためには、まず自分の立ち位置を、彼らのところまで上げる必要があります。映像会社の社員からスタートする時間はない、というところで会社をつくる決心をします。

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ついに自分がやりたい業界に、しかも独立というカタチで立つことを決心した川原さんが最初に行ったことは、非常に実直で参考になります。10年近く前の実績で仕事ができるわけもなく、新たな実績を作るためただ働きからスタートさせたのです。

無料で動画を作り営業用の素材をもってスタート
そこから一歩ずつ大きな仕事につなげていった

 20代で1回は失敗した会社づくりの経験を生かして、今度はちゃんと税理士さんに最初から相談しながら会社づくりをスタートさせました。いきなり仕事はないけれど、カメラと編集できるPCは持っていたので、知り合いに片っ端から声をかけて、無料で撮影させてもらって編集したプロモーションムービーを提供しました。その代わりに、これを営業用のサンプルとして使わせてほしいとお願いをして、これをもっての営業です。
 最初はタダで作ったものから1万、5万、10万と、それだけの価格に見合うように質を上げてサービス内容をパッケージ化することで、少しずつ大きな案件を得られるようになりました。

 そのころは会社と言っても僕1人で、知り合いのCG編集をする会社の事務所に机1台だけ借りている状況でした。もちろん、その会社で撮影が必要な時には僕が出動したりもしていました。ところが、この会社が倒産することになり、そこのCGメンバー2人が仲間入りしてもらうカタチで、僕の会社として映像とCGを行うようになりました。自分の失敗経やほかの会社の経営から得た学びは大きかったと思います。

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 小さい会社なので、いかに倒産せずに継続させるのか? がいちばん大事なことだと思っています。時代の先読みをしっかりすることの大切さ、資金繰りにおける交渉術、リスクヘッジやマイナス要因の排除をしっかり行ったうえで、自分たちがやりたいことや社会に価値を提供できることをやっていくことが必要だと思っています。お客さまが求めている動画周辺の疑問や悩みに応えられるよう、SNS運用について、撮った映像をどう活用するのかというコンサルティング的な相談にも乗れるようにていきたいと思っています。

 今では、メンバーみんなを信頼して映像やCGづくりをやってもらい、僕はしっかり経営をすることが会社にとって大事なことだと思うようになっていますが、大好きな映像を作ることを忘れたわけじゃないんです。好きな映像制作は、いつでもいくつになってもできるものだと思っています。だから、今は目の前のことに集中していく時期だって思って、がんばれています。

川原さんの生き方はたくさんの勇気とヒントをくれるものだと感じました。自分のプライドのせいで素直に就職できず、やりたい世界からどんどん離れていってしまったものの、最後はその世界に戻る道を選びました。そのための苦労もすべて受け入れた決断です。多くの人が自分の仕事への疑問にフタをしながら生きている中、自分をごまかすのをやめた勇気に拍手を送り、今後の活躍を期待したいと思います。


下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!