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うちの母の話。洋裁一筋65年、リフォーム(お直し)業で生きてきたSDGs的人生

私の母・よし子さんは82歳。いまだに現役で働いている。そのおかげで、たまに彼女の歳を忘れそうになるほど元気。コロナ前までは、ゆるめのエアロビクスクラスに最年長で参加していた。最近は運動不足が悩みの種。
彼女の仕事場は、私と二世帯で建てた1階の南面、日当たりがいい4畳半ほどのスペース。いまどき見たことのない古いミシンとロックミシン、プロ仕様のアイロン台と全身鏡が完備された彼女のお城だ。

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50年以上使っている業務用ミシン。今では「修理師の方も亡くなり、部品もないらしく使わなくなったら動かなくなり、修理もできないだろうな」とのこと。元気に動いているのは、ほぼ毎日、母が踏み鳴らしているから。

よし子さんは富山県のいまだに鉄道も通っていない山奥で育ち7人兄弟の4番目。畑だけでは食べていけず、林業や和紙作り、お蚕、草履作り、なんでもやっていた父(私の祖父)は「女に学問などいらん!」という人。

高校進学は許可されず、中卒で働きだして数年、かわいそうに思った母(私の祖母)が習い事を許可してくれたのだそう。選んだのは洋裁学校。中卒で習いに来る子達ばかりの中、1人だけ年上だったよし子さんはがむしゃらに勉強。結果、優秀な成績をおさめ、その学校の先生に迎えられた

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↑若かりし日のよし子さんはほとんどお手製の服を着ている。私たちが成長し、父が病気がちになった頃から、忙しくて作る余裕はなくなった。

別の学校でも先生として教えていたが、今度は父から「いい歳していつまで働いてるんだ。さっさと結婚しろ!」と縁談話。しかも、すべて農家の嫁。せっかく身につけた洋裁の腕を生かしたかったよし子さんは、運よく”憧れ”の東京で働く男性との縁談話に飛びついたw それが私の父だ。

よし子さんの夫(私の父)は、高校中退で東京に働きに出ていた(高校中退の理由は、勉強をせずに野球ばかりやっていたため、祖父から勘当されたのだそう。私はこんな父の娘ですw)。

親戚の衣類卸問屋の会社で働いていたが、その会社の業績が厳しくなったタイミングで独立。結婚して上京後は、アパレルメーカーのミシン女工として働いていた母が手伝う形で、学生服の卸や製造を行うように。

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↑こちらも年代もののロックミシン。ミシンで縫いながら、布が切られていく様子はとてもおもしろくて、子どもにとっては魔法の道具に思えていたw
アイロンも業務用で、スチームがしっかり出てかなりの高温になる。

我が家にはミシンが2台並び、両親共にミシンを踏み鳴らすようになった。母にしたら、女工時代には給料をもらっていたのに、今は家で働いても生活費しかもらえない。父に交渉して毎月わずかばかりの賃金をもらうようになる。さらに、決められた制服を作るだけの仕事では飽きてしまい、空き時間を使って、近所の人に頼まれたお直しで小銭を稼ぐようになったのだとか。

「東京でも洋裁の先生をしようとは思わなかったの?」と聞いたところ、「しょせんは、田舎者の中卒。東京なんて都会で先生ができるなんて思ったことはない」とのこと。中卒は彼女の強いコンプレックスだった。私に「女でも大学には行け!」と強く言ったのは、このためらしい。

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↑洋裁の先生までやっていた人だ。洋服を作るのなんてお手の物。私が小さい頃は彼女のお手製の個性的な柄の服ばかり着せられていた。周りと少しセンスが違っていて、子供的にはいやだった記憶がある。。。

私が中学2年・兄が高校2年の春、よし子さんの夫(私の父)は亡くなった。家は借家だし、会社員でもなかった父が死んでも保険金はたいしてもらえない。まだ女性の多くは専業主婦の時代だ。

コレからまだまだお金がかかる子供を抱えてどうしたらいいのか? 本当に悩んだという。父がやっていた仕事を引く継ぐことは無理。働きに出ることも考えたが、結局、彼女自身がこれまでに育ててきた、お直し(リフォーム)の仕事がかなり増えていたので、それを継続することにした。

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↑母が覚悟を決めて作った看板。二世帯に建て直しても使うと言い張り、今も引き続き使っている。とにかく母は、なんでも物持ちが良すぎる。

バブル期で世の中の景気が良く、ブランドものの服をバーゲンなどで大量に買う人たちがたくさんいて、ちょっとした裾上げやリフォームにやってくる人は後をたたなかったという。リフォームという仕事はやっているところが少ないことと、彼女の腕のよさもあり、口コミで広がりあちこちから仕事が舞い込むようになった。

本腰入れてやるために、看板も作った。よし子さんにとっては看板を出すことは後戻りができなくなる大きな決断だったらしい。

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↑襟がボロボロになっても、裏返したらまだ着られるんだそう。ほころびはしっかりミシンで補強。そういえば若い時、おしゃれダメージデニムの穴をこんな感じで勝手にミシンで補修されていて、ケンカしたことがあったw

なんの保証もない仕事だから、ちょっと暇になるたびに「やっぱりどこかにお勤めしようかな」と弱気発言をし、常にお金の心配をしていた。彼女の金銭感覚はそのまま私に受け継がれた。。。
私は長年、お金がいくらあっても安心することができないタイプだった。

私が大学を卒業して少しは安心するかと思いきや、よし子さんは「自分の老後貯蓄が足りないのでは?」と新しい不安を抱えていた。常連さんやブティックからの依頼なども増えていたが、仕事がなくなることは彼女にとって死を意味する。私たちには「サラリーマンがいちばん安心」と言い続けた。
私が会社を辞める時に見せた、恐怖に満ちた表情は忘れられないw

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↑「仕事場は大きい通りに面した南側。アイロン台前に窓」65歳を過ぎて、二世帯住宅を建てる際のリクエスト。我が家の好立地を母にとられて、正直「いい歳してワガママすぎ!」と思ったけど、今でも現役だし、ボケることなく元気なのは仕事のおかげだろうな。写真は家が完成してすぐの頃。

よし子さんは、午前中は必ず仕事場で針仕事をしている。たとえ仕事がなくても、お客様がいつ来てもいいように、働いている気配を出している。私たち家族の繕い物をしたり、趣味のパッチワークをして。

コロナ初期のマスク不足の際は彼女なりに考えて、手縫いマスクを大量に作った。それこそ売るほど作っていたので、私が手伝って知り合いやご近所の方に生地代と送料だけいただく形で販売もした。かなりの方から購入いただけて、母の喜びも大きかったようだ。

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レース素材で作ったり、夏は麻や絽などで作ったり、素材選びからのこだわりがプロっぽい。すべて家でほとんど使われずに眠っていた着物や布地をアップサイクル。裏地は新しいガーゼ素材で肌触り、通気性を確保。

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↑彼女のプロ意識は半端ない。雑な仕事はプライドが許さない。手作りマスクでは、裏地をつけて袋縫い。これで縫い目が表に出ない。カーブに合わせて切り込みを入れてひっくり返す。しっかりアイロンがけをしてから、ミシンで端を抑えるという細かさ。この作業を1枚ずつ。市販では1枚500円でも高いと思われるが、職人の手作業とはコレほど手間がかかっている。
彼女のおかげで職人の作品や仕事は、高く買おうと思えるようになった。

母の仕事は衣類をより長く着てもらうために手直しすることだ。成長したり、太ったり痩せたりしたときの寸法直し、時代の流行に合わせてちょっと形を変えたり、今あるものを違う形にアップサイクルすることも。

私が断捨離したものを玄関先にまとめておくと、翌日にはゴミ山が小さくなっている。そう、母が「もったいない」と救出するからだ笑 正直、そんな母を「貧乏性だな〜」と思っていた。

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↑よし子さんの家の玄関であり、お客さまの受付でもある飾り棚。布製アイテムはすべて彼女のお手製のアップサイクル?品。最近は端切れをパッチワークしてリメイクするのが楽しいんだそう。

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↑我が家で捨てようとしていたリュックやバッグ、服などを勝手に拾って、トートバッグにしたんだそう。パッチワークが流行っているので、どのアイテムもほとんどパッチが施される。ものを捨てたはずなのに、アップサイクル品をちょいちょいプレゼントされて、再びものが増える我が家。。。
※万が一、こんなグッズたちを欲しい方がいらっしゃいましたら、いろいろ安くお譲りしますので、ご連絡ください笑

でも、見方を変えたら「めっちゃSDGsな人なんだな」と思えた。よし子さんの若い頃の話を聞きながら、彼女の暮らしぶりを見ると、あちこちにSDGs的要素がある。日本の「もったいない文化」を大切に、使えるものを長く使う考え方に、私たちは改めて立ち返る時なのかもしれない。

彼女のDNAを色濃く継いだはずの私は、それを実践し発信していくことがある種の使命のような気もしてきた。ってことで、コレからもSDGs的な暮らしその意味を発信し続けていこうと、改めて宣言しておく。

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↑若き日のよし子さんと私。初孫(うちの長男)が生まれてメロメロだった頃。二十歳を超えた長男は、今でもたまによし子さんとお散歩している。「人に優しく、女には特に優しく」を教え込んだ甲斐があるw

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下町の2D&3D編集者。メディアと場作りのプロデューサーとして活動。ワークショップデザイナー&ファシリテーター。世界中の笑顔を増やして、ダイバーシティの実現を目指します!