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結婚式の思い出

 小学生のころ、親戚の結婚式に出席したことがある。華やかな衣装、豪華な食事、式は予定通り進められ、この世界には幸せしかないんじゃないかと思えるような式だった。

 椅子にじっと座っていられなかった私は、式場の中を探索した。いつもとは違う、白を基調とした建物とところどころに設置された花々。その中の一つに、厨房があった。他の場所とは違う銀色の部屋で、何人かが提供する料理を作っていた。そこで私は調理している方と何か話したような気もするし、ただちょっと見ていただけかもしれない。

 きれいに盛り付けされたデザートが並べられているところを見て、さっきまで食べていた煌びやかな食事は、誰かの手によって作られていることを漠然と知った。当たり前に出てくるものも、当たり前に行われることも、きっとないのだと。

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 母方の祖父母の家で、とあるDVDを見つけた。「●●(私の母の名前)結婚式」と書かれたそれを取りだし、祖父に聞く。「これって、●●の結婚式の映像?」「そうだよ」「えっ、見たい!」、かくして私は親の結婚式の映像を見ることになった。

 幸い私と祖父母しかいなかったので、止めるような人はいなかった。DVDをセットして流れた映像は、画質が荒いながらも、式典の様子をきちんと捉えていた。

 白無垢を着た母と、黒の紋付袴を着た父は今に比べてだいぶ若かった。今の私と同じくらいの年齢だろう。慎ましく神前式が行われている。そこには、もう亡くなってしまった人も出席していた。私は知らない、元気な姿。

 不思議なことだと思う。歴史の教科書では感じえない、時間の流れに対する違和感だ。この結婚式が行われているとき、その場にいる人を含め全ての人が、私を知らない。産まれていないんだから当然なんだけど、今の私という人格や表情が全く分からないときのことというのは、自分で考えるとムズムズする。

 私はまだ居なかったその結婚式を、今生きている私が見ていて、そしてその親の年齢に近づいていること。

 私だけのことを考えたら、結婚なんてまだ先だし、子どもはなおさら考えられないことだと思う。けれど、年々結婚することも、子供を産むことも、大切だと感じる自分がいるのも事実だ。私はそこから始まったから。

 どれだけの思いがあって両親はあの場所に立っていたのだろうか。歳を重ねるにつれ、その思いが少しずつ重みを増していく。小学生のときには気が付かなかったことに気付いてしまう。大人は、子どもが思うより、ずっと子どもだ。子どもの延長線上に大人はいて、役割を通して初めて「大人」に、「親」になっていくんだろう。

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 映像で見る若い両親はなんだか初々しくて可愛かった。今と変わらないところもたくさんあった(特に性格面)。最初から親は親ではないのだなぁと思ってしまう。一人の人間同士が、誰かと巡り合い、私の親になってくれた。

 それなら私も焦ることはない、とちょっと自分を肯定したりする。晴れ姿を見せたいとは思うけど、まだ私は一人の人間としての生活を楽しみたい。いい夫婦の日に寄せて、両親へ、末永くお幸せに。

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