私たちは、絶対に分かり合えない
世の中には二種類の人間しかいない。
きのこの山派とたけのこの里派である。
発売から40年、
きのこたけのこそれぞれの派閥の勢力は増してゆき、
昨年三度目で最後となる、
「きのこの山・たけのこの里国民総選挙2019」
も開催される運びとなった。
ちなみにこの時は「きのこの山」の初勝利であり、
それまでの二度の選挙ではたけのこの里の完全勝利であった。
今回の勝敗に大人の事情が絡んでいるだろうなどという憶測は決してしてはいけない。
発売から40年経つが、
きのこの山派とたけのこの里派が相入れることは多分、今後も永久にない。
ちなみに私は断然たけのこの里派である。
自ら進んできのこの山を買うことは絶対にない。
たかがお菓子に、なぜ三度にもわたり選挙が繰り広げられたのか。
プロモーションの一環であるということはこの際シカトさせていただく。
「好き」という気持ちが高まると、
その好きな対象を脅かすような存在が現れれば、
それは瞬時に
「敵」
と見做され、一気に攻撃対象となる。
自分の「好きなもの」の価値が貶められる可能性があるからだ。
その感情のぶつけ先として、こたびの選挙が行われたのではなかろうか。
昨今流行りのアイドル商法のこともあり、
最近の日本人は政治以外の「選挙」システムにだいぶ慣れ始めている。
だがきのこの山もたけのこの里も数多くのファンが存在し、
選挙の結果をどちらも認めようとはせず、選挙は三度目まで持ち越された。
当然選挙結果でどちらかの販売が中止されるような気配はない。
どちらもお互いの存在を認め合ってもいいはずなのだが、
きのこの山派もたけのこの里派も、
大概の場合相手のことをボロクソに言う。
私はそれをいつも興味深く観察している。
「近しいけど違う何かを好き」ということは、
ただそれだけで喧嘩の火種になり得る。
宗教戦争の縮図を、きのこたけのこ戦争に見る気がするのだ。
きのこの山派は、いつの間にかきのこの山教に、
たけのこの里派は、いつの間にかたけのこの里教に入信していることに気付いていない。
「どんな人でも話せば分かり合える」
などということを平気で言う人間が時々いる。
私はそういう人間がとても苦手である。
現にたかがお菓子であるきのこの山派とたけのこの里派ですら分かり合えていないのだ。
どうやっても分かり合えない人間は必ずいるし、
同じ日本語を使っているはずなのに、
そもそも日本語すら通用しない(意図をきちんと理解できない)、
という人間は一定数存在する。
「どんな人でも話し合いをすれば分かり合える」
と主張する人間は、
日本語が通用しない人間と喋ったことがないか、
まだ話し足りないとでも思っているのではないかと思う。
脳内がお花畑で羨ましいとは思うがなりたくはない。
違う。
それは、絶対に違うのだ。
「どう頑張って言葉を交わしたところで、分かり合えない人とは絶対に分かり合えない」
のだ。
これは 、いじめや戦争をなくすことができると言っている人間にも同じことが言えると思う。
「私たちは絶対に分かり合えない」
のだ。
「人間と」という生き物を特別視しているか、
動物の一種ととらえているかでもまた考え方は変わると思うが、
私は人間をいじめや戦争をなくすことができるほど、
大した倫理観も理性も知能も持った生物だと思っていない。
大抵の人間は誰かを敵に仕立て上げ攻撃することで一致団結をはかったり、
戦争をすることで自らの利益を追求しようとしたりする。
両方とも実に愚かしい行為である。
頭で考えればすぐわかることである。
だが、その愚かしい行為が、
今日もどこかで行われ、
尊い命が失われているかもしれない。
(今はコロナのせいで命を落としているかもしれないが)
ある日ふと、
「いじめをなくそう」
というポスターが地下鉄構内に貼られているのを見た。
私は思わず、
「なんて無意味なんだろう」、
と思った。
いじめをしている人間が、このポスターを見て
「よし、いじめ、やめよう!」
とは、どう考えてもなりようがないからである。
「いじめをなくせる!」
と本気で思っている人とは、
私は絶対に分かり合えない。
いじめを良いものだとは決して思っていない。
自分も神社に住んでいた頃立派に被害者であるし、
神社に住んでいるくせに加害者になったりしたこともある。
あまりのつらさに命を絶つ人もいるくらい、
いじめはつらいものである。
その上で、私はいじめは絶対になくすことが出来ないと、断言できる。
多分これは、人間の本能の部分が関係していると思うからである。
本能に逆らった上、同調圧力に屈せず、次のターゲットになる可能性も秘めながらも自分の意見を貫き通すのは、
普通の子にはかなり難しい。
そんなにも難しいことを、
「いじめをなくそう!」
と簡単に言ってしまえる人間とは、あまりに現実感がなさすぎて何の話もできる気がしない。
夢物語が過ぎるのだ。
「いじめ、ないほうがいいですもんね〜」
以外にできる会話が思い浮かばない。
「いじめを限りなく減らしたい!」
という人なら、私は心から応援しようと思える。
いじめを完全になくすことは出来ないという前提のもと、
一人一人、または組織として、
どうやったらいじめを少なくしていけるかを現実に即して考え行動に移していくことが出来そうだからである。
いじめは良くないもので、ないほうがいい、
という根本の考えは同じなのに、
「いじめをなくそう」と「いじめを減らそう」
のあいだには、大きく分厚い隔たりがある。
たとえば早く移動したいという考えは同じなのに、
「瞬間移動を会得したい」と言っているのと、
「現在開発されている最速の乗り物の速度をもっと上げられるようにします」
と言われているのと同じくらい、違う。
「いじめをなくそう」派は、
それがまさか夢物語だとは気付いていない。
人間が、本当にいじめをなくすことが出来る高等な生物だったらよかったけれど、
どうやら人間はそんなに上等には出来ていない。
いじめをなくす、というのは非現実的な目標ですらあると思っている。
「いじめはないほうがいい」
という思いは同じでも、
なくそう派と減らそう派では、
悲しいけれど永遠にわかり合うことは出来ない。
「なくす」と「減らす」では最終的なゴールが違うから、
アプローチの方法もだいぶ違ったものになっていくだろうと思う。
けれど私が一番に言いたいのはそこじゃない。
私は、
「『どうやったって分かり合えない』ということを分かり合いたい」
のだ。
人間には、「どうやったって分かり合えないことがある」のだ。
でも別にそれは悲しいことでもなんでもない。
ただの人間同士の考え方の事実として存在しているだけなのだ。
ただ、この時に私が大切にしたいと思うのは、
「相手の考えを否定しない」
こと一点である。(よほど相手が非人道的だったり犯罪的な思想でない限りは別であるが)
自分とは異なる、相手の考えを尊重するのだ。
そうするだけで、争いは生まれない。
きのこの山派もたけのこの里派も、
一晩話し合えば分かり合えたりはしない。
むしろ一歩も譲らないまま夜明けを迎えるかもしれない。
けれど、
「相手を否定しない」
ことを守れば少なくとも喧嘩には発展しないのだ。
「分かり合えない」
ということ自体は悲しいことでも喧嘩になるようなことでもない。
自分ではない他人の考えなのだから当然のことなのだ。
それを自分が正しいと思い込み、相手を否定したりするから争いに発展したりするのである。
そこには相手の考えを尊重する、という観点が欠落しまくっている。
私は何か話し合いをして分かり合えなかった時に、
「分かり合えないということを、分かり合えたね」
という風に話を終わらせたい。
相手の考えを否定するわけでも自分自身の考えを主張するわけでもなく、
「分かり合えないということが分かり合えた」
ということでコンセンサスを取りたいのだ。
分かり合えないということが分かり合えたね!
と私は気持ちよく会話を終わらせたい。
世の中、他人と話して分かり合えることなんて一握りだ。
だからこそ、自分と違う意見の人間の気持ちを
「分かり合えないですね」
と分かり合い、
じゃあどうすればお互いの理想とする着地点に到着できるのか、
折り合いをつけられるのかを一緒に考えたい。
分かり合えなくても、
それなら一緒にすることができるはずである。
「話せば絶対に分かり合える」
という人とは永久に話しても分かり合うことができず心身ともに疲弊し時間も無駄にする。
しかし、
「私たちは絶対に分かり合えないということが分かり合えた」
ということは、
そこから考えられる色々なことを生み出せる、
新しいスタート地点にもなり得るはずだ、
と私は思っている。
たとえば
「きのこの山をどうすればたけのこの里に近づけられるか」、
などである。
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