関西人とオチ
ぼくは京都府の北部ではあるけれど一応、関西人としてこの世に生を受けた。
子どものころからテレビをつけるとお笑い番組も多かったと思うし、そこには関西ローカルの番組でしか見ることのない芸人さんやタレントさんも多かった。
ちなみに中学生のころ、一番好きな芸人さんは越前屋俵太さんだった。
ぼくらが小学生だったころ、ちょっとした面白い子やお調子者の子がいると「そんなことばかり言うてたら吉本に入れるぞ」とか、「将来は吉本に行け」と決まり文句のように先生や周りの大人たちは言っていた。関西の人なら多分、どこであっても見覚えのある光景だと思う。
こういった背景には、現在とは比べものにならないほどテレビの影響力が大きかったこともあるけれど、かといって同様の光景が東京をはじめ関西以外であったとは考えにくい。
ぼくの地元でさえこんな感じなのだから、やはり関西にはそういったお笑いの土壌が昔からあったのだろう。だから関西人は子どものころから隙あらば何か面白いことを言って笑わせよう、といった意識が多少なりともあるのだと思う。
そして、その熱量は関西の中でも濃淡がある。
関西以外の人にも伝わりやすいように大阪、京都、神戸で例えると、大阪が100%の原液なら京都や神戸はそれを割って薄くしたものくらいだとぼくは思っている。
これを言って笑わせようか、どうしようといった逡巡などなく、いつ何時、誰が相手であっても笑わせようとするのが大阪人だ。まぁ、勝手なイメージなんだけれど。
大阪人は子どものころから、何よりも面白いことこそが人としての尊厳であるかのような空気の中で育ってきた気がする。だからこの気質は生まれ持った性格というよりも、やはり環境によって後天的に養われたものなんだと思う。
テレビ番組などで関東の人に関西人の印象を尋ねているのを見ると、「オチを求められるのが」「オチは?と言われるプレッシャーが」といった話がよく出てくる。「で、オチは?」というセリフのことなんだけれど、ぼくは実際にそんな場面に遭遇したことがないし、京都の人は仮に思っていたとしてもそれをストレートに口にはしない気がする。これを容赦なく言うとすれば、やはり大阪の人なんじゃないかな。
関西人は会話をしているとき、何か面白いオチにしなければ、と大抵ぐるぐると考えている。それはもう気質であり、関西人としての使命感からと言ってもいい。
けれど、それを相手に求めてはいないと思う。
仮に会話の最後に「で、オチは?」と言われた場合、それは「で、面白い話は?」でなく「で、その話の結末は?結論は?」であり、つまり述語は?というだけのことなんだと思う。
それが面白いに越したことはないだろうけれど、関西人だってみんながみんな面白いわけでもない。
だから、オチがないなら「ない」と言えばいい。
きっと、「ないんかい!」とツッコまれるだろうけれど、関西人にとってはツッコミを入れるのも礼節だと思っているので、コミュニケーションの一つだから気にする必要もない。逆にそこでツッコミを入れなかったら、その人は関西人としての自責や後悔の念に駆られるに違いない。
ぼくがこれまでに見聞きしてきたオチで、ダントツで一番だと思うものがある。
それは関西人でなければお笑い芸人さんでもなく、三谷幸喜さんと小林聡美さんによるものだった。
テレビで見ていた結婚発表の囲み取材のときだったような記憶がある。一通りの質疑応答を終え、レポーターから「それでは最後にお二人で腕を組んでいただけますか」と声をかけられた三谷さんと小林さんは、なんと同時にそれぞれ胸の前で自分の腕を組まれた。
斜め上にもほどがある展開にぼくの目は釘付けになり、もう面白いという感情をはるかに超えた感動を覚え、唸らずにはいられなかった。
これこそ最高傑作のオチであり、天才だと確信した。
後にも先にもこれ以上のオチをぼくは見たことがない。
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