『ブルース』花村萬月

南シナ海の烈風。眼下で砕ける三角波。激しい時化に呻く25万トンの巨大タンカーの中で、村上の友人、崔は死んだ。仕事中の事故とはいえ、崔を死に至らしめた原因は、日本刀を片手に彼らを監督する徳山の執拗ないたぶりにあった。徳山は同性愛者であった。そして村上を愛していた。村上と親しかった崔の死こそ徳山の嫉妬であり、彼独自の愛の形であった―。横浜・寿町を舞台に、錆び付いたギタリスト村上とエキセントリックな歌姫綾、そしてホモのヤクザ徳山が奏でる哀しい旋律。芥川賞作家が描く、濃密で過剰な物語。

中学三年生の頃に出会った作品を再読。
当時の自分がどこまで理解しながら読めていたのかは定かじゃないけれど、どこか青臭い花村萬月の小説は好きだった。たしか夏前に読んでいたからか、この作品って夏のイメージがあったけど、これって冬の話だったのね。知らなかったや。

小説『ブルース』はその作品名の通り、音楽を中心に展開される。アメリカの黒人が歌っていそうなあれ。アメリカの小説『結婚式のメンバー』で、部屋の外から聞こえてくるあれ。もとを辿れば差別を受けていた黒人階級の、その中でも身体が弱かったり目が見えなかったりする人たちの悲痛な叫びが歌になったものだったりするそうだ。しかし、でもそれだけではない。ブルースは悲惨な日常を生きる彼らにとって娯楽であったのだ。
そういう娯楽でありながら、人生の悲痛さが滲む音楽。それがブルースであるように感じられる。

自分の話をすると、中学生活での2年3年と、
この2年間でかなりの量の本を読んだ。その中でも、今作はずっと心の中に残っている作品のひとつである。どういう経緯で花村萬月の小説を手にとったのかは定かでないが、この小説との出会いは今も鮮明に覚えている。
暑い夏の、まだ序盤の時期。会議室に終日閉じ込められていたあの日のこと。様子を見に来てくれたあの子に「取ってきて」と言付けたこと。手紙とともに差し入れてくれたこの小説。頭の中でローテーションしていたロバート・ジョンソンの奏でる単調な音楽。

I went to the crossroad, fell down on my knees.

当時の自分は
何に憂い、何に葛藤していたのか。
今となってはわからないけどね。
それが青春だったことだけ確かだった。

話を戻して。
花村があとがきで述べる
「小説を書きたいという衝動」
その衝動が何より全面に出てきている作品なように感じた。小説としてもかなり分量は多いが、勢いで書き切られている。
テーマは、『悲しみ』か。

渡米するも夢破れ、日雇いのタンカー清掃で食いつなぐ村上の「悲しみ」
ホモのヤクザで満たされることのない村上への恋心を抱く徳山の「悲しみ」
若さゆえに何も出来なかった綾の「悲しみ」
三者の持つ分かり合うことのできない「悲しみ」がブルースのメロディと共に混ざり合う。

花村萬月作品を通して挙げられる特徴は、
なんと言ってもその暴力描写と性描写である。
確か『ゲルマニウムの夜』(花村が芥川賞を受賞した作品)で、このような記述がされていた。

「暴力とセックスはコミュニケーションの究極である。」

いわずもがな、コミュニケーションとは
「他者と分かり合うため」の行為である。
そして花村(の作品)が言うには、
暴力もセックスもその一部であり
そしてその究極であるのだ。

ホモでヤクザ者の徳山は、村上の友人を日本刀で切り捨てるという(いびつな)形で、村上への叶わない愛情を表現する。そしてまだうら若い綾は、村上への愛から、自らのバンドメンバーのひとりを海へ沈めるという行動に出る。そして大人になれない村上は、綾を愛する事もできず、ただ放浪の旅へと。。。

他人と分かり合うことは難しい。
そしてわかり合おうとすることそれ自体が苦しいことなのである。
中3の自分も、きっとそんなことに気がつき始めていて、そういうことを憂いていたのか。
そういやそんな時期だった。中学3年、夏。
しらんけど。

そんなこんなで。

だいぶおすすめの作品やから、
ぜひよんでね~~~。

おわり

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