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軽々と移動していく聖域

サンクチュアリ。

まさかその単語を口にする日が来ようとは。しかも、市役所で。
テーブルの向こうで、職員の方々がきょとんとしている。
無理もないことだろう。日本で、サンクチュアリなんて。

でも私はふいにぱっと視界が開けたような、暗がりからようやく這いずり出て光を浴びたような、そんなこころもちで、どんどんと先へ進んでしまった。

そうだ。私にはサンクチュアリがあるんです。忘れてました。あそこなら、ほぼ安全です。たった二、三日ぐらいしかいられないだろうけれど、でも、たぶんすぐに受け入れてくれるだろうし。何といっても男子禁制だし。とにかく完全に安全です。

冷静になってから考えると、もう十年も教会に通っていない私を迎えいれてくれる保証なんてどこにもない。
だけれどもそれを言ったらどこだってそうだ。確かな場所なんてこの世のどこにも存在しない。
ならわずかでもつながりのあるところに向かったって損はしない。

私は不思議とそういう、ぐらぐらした頼りない足場をぴょんぴょん跳ねては移って渡ってここまで来ていられている気がする。
ポンコツとしか言いようのない運動神経がどういうわけかこの時だけは絶妙にバランスを取り考えるより先に全身を支えるべく動いてくれる。

サンクチュアリ。

可能性がひとつ、また増えた。





ディズニー映画「ノートルダムの鐘」の冒頭、悪漢に追われる女性が聖堂のドアを目指して必死に走りながら叫んでいた記憶がある。確か手には赤子を抱いていたのではなかったか。

Sanctuary.
Please let me get the Sanctuary.

それ以降の内容はあいまいなのに、その場面のその台詞だけは妙にはっきりと頭に残っている。
サンクチュアリってそういう使い方をするんだな。たぶん、イギリス留学が終わって一ヶ月と経っていないころで、どんな映画を観ても英語が使われていればまだ脳は字幕よりそちらに反応していた。
だから、get the Sanctuary というのも、恐らく私の知らないキリスト教的な背景があるにせよ、
「こういう表現でサンクチュアリを要請すれば教会の庇護を受けられるのだろう」
と推測もしたのだと思う。





父に首を絞められた一件以来、私は安全な状況にいるとはお世辞にも言えない。
このままここに住み続けることを、医師も、福祉も、不動産屋さえもが危ぶんでいる。もちろん、不動産屋さんは「これ以上なにかあってはたまらない」、そんな事情もあるだろうけど、それでも、いちはやく次の家を探そうとしてくれている。
あくまで仮定の家さがしだが、話がいつ現実化してもいいように準備をしてくれているのはこの上なく有り難いことだ。

「ものすごく人に恵まれてますねえ」

福祉の方がいっそ感心していたので、そうなんですよ!と力づよく応じた。

「びっくりするぐらい色んな方が助けてくださっていて、もう、本当に、何というか、びっくりしています」





「あなたばかりが面倒な目に遭いすぎだとも思う。父親が遠くへ行ってくれることが本来あるべき話なんだけどね」

医師に電話でそう言われるまで、そうした発想はまったくなかった。

私の安全のために、父をどこかにやってしまう。

でもそれには段階が必要で、福祉がどんなに頑張ってくれてもやはり時間も手間もかかるし、その間のんびりしていられないのも、医師はわかっている。

だからもっと早く福祉が動くべきだったんだ。こんなことになってから、今更だ。

医師の言い分もごもっともなのかもしれないが、今それを言っても始まらない。なら、やはり私が動くしかない。





そういうお話もしたいので、と福祉の方に呼ばれて、上長の方もまじえての面談となった。

引っ越し。
正直なところ、おっくうでもある。
これから冬に向かう寒いなか、ましてや、休養したい期間だったはずなのに、慌ただしく生活の場を移すなんて、考えただけでうんざりする。
なんで私ばっかり、とも思う。
兄の罵倒から逃げて、逃げた先で父に首を絞められて。私が悪いなら、それでことがおさまるなら死んでしまいたい気分がまったくないとは言えない。

それを率直に告げた上で、でも、と私は言った。

「見方を変えれば、引っ越しのあれこれで忙しくしていれば恐怖はまぎれるし、むしろ怖がってる暇なんかないでしょうし。めちゃくちゃちらかってる家なので何なら火事にでもならないかなと思ってたのが、まあ実質そうなったようなものなので願ったり叶ったりな感じもしますし。休養期間だから時間もたっぷりありますし。ぜんぶ捨ててさっぱりして新しいところへ行けるんですから良いことのほうが多いですよね。おびえている私も捨てていけますし」

おびえているあなたも、ですか。

上長の方が、何に引っかかったのか、そう尋ねてきたので、ええ、と私はうなずいた。

「いちばん捨てるべきものじゃないですか?それ捨てないと、世界中どこへ逃げても意味ないですよ。父が自由でいる以上は、私の首を絞めるのも、私を脅かすのも、恐怖で苦しめるのも父の思いのままなんですから。私がそういう自分を捨てるしかないんです。で、新しいところでまた最初からやり直す。いちばん現実的で建設的で、自分にできる最高のことだと思っています」

お二人がちょっとの間、顔を見あわせた。
気を取り直したようにお若い方が、ええと、と書類をめくった。

「前向きなお考えで、本当にこちらとしても助かります。できる限りバックアップさせて頂きますね。ただ、今日、明日、何かあったらというのが怖いので……でもシェルターなどはなかなか……ああいうところは本当に緊急性が高い方を優先しますので。事件からもう三日たっているから大丈夫って思われてしまうんですよね」
「何か、わかります」
「すると、もう一時入院とか、そういう匿い方しかないというか。でもそれは、あなたに本当に無理や不快を強いることだから、私どもも望ましいとは言えないんです」

匿う。そうか。そういう場所か。
どこかないかなあ。

考えていたときに、ひょいと浮かんだのが、それだった。

サンクチュアリ。





「修道院ですか」

そうなんです、と私は身を乗り出した。

「いくつかツテというか、かつて懇意にしていた修道院があります。たぶん名乗れば思い出して頂けます。教会は神父さまが住んでいるので、あそこは女性は泊まれませんが、女子修道院なら逆に男子禁制なので父親は絶対に入り込めません」

え、そんな手が?
そう言いたげに唖然としている若手さんを横目にしてから、上長の方が私に向き直った。

「キリスト教徒なんですか?」
「はい。カトリックです」
「お父さんは?」
「創価学会ですね」
「ああ、うん……うん?」
「私は成人してから洗礼を受けたんです」
「はあ……そうなんですね」

修道院に泊まったことは何度もあるし、おこもりだってした経験がある。思いつく修道院は近辺でも五つをくだらない。
それに修道会によっては福祉関係に強かったりもする。院が受け入れてくれなくてもどこかを紹介してくれる可能性は高い。

「いわゆるサンクチュアリです」

まだうまく理解できずにいる様子のお二人に、ええと、と私は頭をめぐらせた。

「修道院に一時的に匿ってもらうんです」

なるほど、とようやく合点がいったふうに、そろってこくこくと首を縦に揺らした。

「日本だとけっこう普通の一軒家が修道院だったりするし、最近はこう、シスターっぽい格好をしていない方も多いので、見た目は普通のおばさんたちが何か集まって暮らしてる感じなんですよ。そこに顔なじみでもない男が近寄ったらすぐ怪しいと分かります」
「へええ?」
「もちろん、いかにもなところもありますけど。このへんだと那須のトラピスチヌ修道院ですね。あそこなら確実です」
「ああ、名前ぐらいは……」
「今はわかりませんけど前は猫も飼ってましたよ」
「完璧じゃないですか」

どうやら猫がお好きらしい職員さんが目を輝かせた。

でも、本当に一時的でしかないし、すんなりことが運ぶとは断言できない。
だけれども、ともかく、他の人にはない、そして父には絶対に想像もつかなければ接近もできない、そんな場所が、私にはある。

それだけでも安心材料は増えますね、とその場にいた全員が一息をついた。

「でもベストはさっさと引っ越してしまうことだと思うので、それはいざという時の手段にしますね。本来、そういう制度ですし」

わかりました、と職員さんたちはメモを取り、改めて私を見た。

「本当、たいへんなことばかりだと思いますけど、私どもも知らない独自の方法をご存知で良かったです。もちろん、何事もなく引っ越しができるよう力になれることがあれば何でも仰ってくださいね」
「はい、ありがとうございます。よろしくお願いいたします」

その後、これからすべきことを確認して、不明な点は質問して、明日やることを復唱して、帰るころには外はもう真っ暗になっていた。

「駅から家まで近いんでしたよね。でもどうか、くれぐれもお気をつけて」

暗いから。寒いから。
気をつけて、の意味は、もうそれだけではなくなってしまった。
でも、

ありがとうございます。

そう、また頭を下げて、帰途についた。





サンクチュアリ。

つい思いついたままを口にしてしまったけれども、たぶん、このままなら修道院に避難もせず、引っ越しに取り組めそうである。

最大の問題は私がこの状況にどこまで堪えきれるか。

結局は、自分なのだ。
何をするにしても、しないにしても。

だけど、さしのべてくれる手が多いほど、それだけで何とかやれそうだ、と思える。
無理をするのではなく。
いざとなったら、その手をちゃんととればいい。

車の音や、父に近い体格の男性に、びくびくする。
たくさんのゴミといっしょにそういう自分を捨てていく。
サンクチュアリはたいせつに持っていく。

そういうことだもんね。
猫の頭を撫でながら、私はなんだか久しぶりにこころからほっとして、頭で考えるのもやめて、今、ふれているものの確かさのまんなかで新しい場所のイメージを描きはじめようとしている。







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