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大切なことは「である」ことよりも「する」こと

丸山眞男は、「『である』ことと、『する』こと」という著作を残している(『日本の思想』岩波新書)。
近代日本に輸入された「自由」を静的に捉えるのではく、動的に捉えることを主張するとともに、近代を身分や肩書きが幅を利かす「である」社会と、能力や機能性に基づく「する」社会との対立軸で分析した論評だ。

著作の中身はともかく、最近、身の回りで「『である』ことと、『する』こと」という表現を思い起こすような出来事が続いた。

弊社・株式会社366も支援しているある社会団体が、代表者の経歴がネックになって、支援を断られたと耳にしたのである。詳しいことは今回の主題ではないので省くが、その代表者が、その社会団体を通じて「する」ことにはフォーカスされず、「である」ことで支援が断られた事例だ。
私も子どもではないので、断られるに至った判断について、一定の理由は想像できる。だが、この人が何をしても「である」がついてくるのだとしたら、なんと息苦しい社会なのだろう。

宗教者界隈でも、この手の話をよく耳にする。「坊さんでもないのに葬式で説法まがいの話をしている葬儀社がいる」みたいな話がある。厳しい修行を経て僧侶となった身から見れば、いい加減な説法はやめてほしい、という気持ちには一定の理解ができる。しかし、その姿を背後から見れば、「僧侶」という自分自身の身分について、無批判に振りかざしているようには見えないだろうか?

寺院離れ、檀家離れと呼ばれる現代。多くの生活者が宗教者に抱く不満は、宗教者「である」ことと、宗教者として「する」ことへの、両者の認識のギャップではないだろうか。

お坊さんは、僧侶「である」ことで威信を保ちたいと考える一方、“だって人間だもの”という調子で、特段、よき市民として何かを「する」矜持を持たない者も少なくない。
現代人にも、僧侶「である」だけで敬意を払ってくれる人もいるが、期待されているのは、この資本主義社会の中でこそ僧侶が何を「する」のか、という振る舞いではないか。「である」ことに敬意を払ってもらえるのは、その人が他人の期待に応えることを「する」からである。

この批判は、私たちにも、いや私自身にも跳ね返ってくることだと、重々覚悟している。
スタートアップ企業だ、DXだ、という言葉に浮かれて「である」ことにうつつを抜かしてはいまいか。社長だ、これまでの経験が、などともてはやされて、地に足がついていないのではないか。

私はそんな思いから、定期的にさまざまな方にお声がけをして、「壁打ち」にお付き合いをいただいている。366の事業の目指すところ、現在の進捗を聞いていただき、質問や意見、批判をいただきながら、自分が道を違えていないかを確認する作業だ。

この瞬間。しっかりと「する」作業を積み重ねながら、よい「である」を築いていきたい。

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