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「他者から奪った分だけ豊かになる」という発想の寺院経営をやめる

■ゼロサムゲーム信仰

潜在意識の中にゼロサムゲームを信奉する人は少なくない。

ゼロサムゲームとは、経済学の「ゲーム理論」の一つで、複数の市場参加者がいたときに、誰かの利益と誰かの損益の総和はゼロであるという考え方である。
荒っぽく言い換えると、富の総和は有限である。
有限である富を、誰かが現在よりも多く手にするためには、誰かがその富を失わなくてはいけないということだ。
誰かから奪った分しか、自分は豊かになれないのだと考えることもできる。

値切って安くなった分だけ自分が得した、という発想はそのひとつだ。
個人や企業が大きな利益をあげていることを理由もなく妬み、「そんな人間がいるから自分が豊かになれない」と思い込む発想も同じだ。

そして、こうしたゼロサムゲーム信者の呪文を、宗教者もよく口にする。


■商標・差別化・檀家制度

終活産業は、目に見える製品よりもサービスが先行する業界であることもあって、商標登録の取り組みが活発だ。「○○じまい」やお墓の名称、エンディングノート周りなど、サービスそのものの盛り上がりに先行して、商標登録合戦が盛んに行われている。

中にはその戦線で踊る宗教者もいる。

もちろん、商標や特許は、事業アイデアを活性化するための合法的で適切な手段だ。
しかし、商標活用の目的が「アイデアを独占すること」にあるのだとしたら、宗教界も市場原理という「新興宗教」に換骨奪胎されてしまったということだろう。

「差別化」という言葉がある。
少しビジネス経験のあるお坊さんが、「他のお寺との差別化で」などと物知り顔で語るのを見ると、わたしは寂しくなる。

現代人が次々とそっぽ向き始めた「檀家制度」というお寺と市民のあり方。市民を“排他的”に自坊に“囲い込む”教団経営のあり方は、世界的な「宗教教団離れ」や「spritual but not religion」という現象を引き起こす要因となっている。

いずれの根底にあるのも、「他者から奪った分だけ自分が豊かになる」というゼロサムゲーム信仰だ。


■オープンソースという思想

経済という娑婆世界から、ゼロサムゲームを乗り越える思想が萌芽を見せている。

1990年代に生まれた「オープンソース」の思想はその端緒だ。
オープンソースとは、コンピュータプログラムを公開し、商用・非商用問わず、誰でも利用したり、修正したり、二次配布することを許すことを言う。
Linuxというコンピュータのオペレーティングシステムが、その代表的な成果物だ。

オープンソースの思想は、ソフトウェアの設計図を世界に公開することで、世界中の有志が開発に参加できるようになり、閉じた世界で開発を進めるよりも、より良い成果物を生み出せるとし、連帯による集合知を信じるものだ。


■利他を体現してほしい

日本には、「情けは人の為ならず」という諺がある。
仏教には、「利他」という素晴らしい言葉がある。

どうか宗教者は、自分のお寺や教会、自分の所属する宗派、自分の信じる宗教の信者だけが豊かに幸せになれば良いなどという考えを、乗り越えてほしい。

宗教界全体の沈下の中で、特定の宗教だけの興隆などない。
仏教界全体の沈下の中で、特定の寺院だけの興隆などない。

ゼロサムゲーム信仰の宗教者が、宗教界全体を沈めていくのだ。
寺院・教会経営を考える宗教者は、利他を体現する存在であってほしい。


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