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病人になった日

精神的に苦しくなってから35年。医者にかかって25年。

パニック発作、神経症、鬱病、難治性鬱病、気分変調性障害、愛着障害、全て私についた診断名だ。

生きることが苦しくて仕方がなかったから、初めて病名が付いた時はホッとした。
これでもしかしたら良くなるかもしれない、そう思った。

それまでは自分を、努力が足りない怠け者、社会不適合者、ダメ人間と恥じて、ちゃんとやれる人達を羨む他、どうしたらいいのか分からずただただ苦しかった。

誰でもいいから助けてほしかった。

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21歳当時、会計の専門学校に通っていた。

2クラスしかない小さな学校で、狭い教室に生徒がみっしり詰め込まれていた。

私は中学、高校を通して広場恐怖の症状をより強めていたので、その教室に存在するだけでも厳しかった。

椅子に座り、黒板を見てノートを取り、先生に指されれば答える。
こんな当たり前のことがとても困難だった。

広場恐怖症はパニック発作がおこった時にそこから逃れられない、助けも求められない状況を恐れ、避けます。それは広場だけではなく、乗り物に乗る、人混みの交差点、高速道路、美容院、歯科受診時、劇場の中心あたりの席など、すぐには逃れられない場所や、逃げたら恥をかくと思われる会議、結婚式など自由を束縛される状況などがあげられます。

広場恐怖症|病気スコープ


私はお酒を飲んで授業に出ることにした。

とんでもない緊張で、授業中座っていることすら怖い。
授業についていくことが本来の目的なのだから、お酒を飲んで緊張を抑えることにしたのだ。

それから毎日、ワインや日本酒などアルコール度数15%前後のお酒を、昔新幹線で売られていたお茶の、プラスチック製の小さな容器に小分けにして何個もカバンに入れて登校した。
500ccのペットボトルはまだ市販されていなかった。

授業は90分~120分くらいが一コマだったと記憶している。
お酒の効果をより長引かせるため、授業の直前や休憩のたびにトイレの個室で200ccくらいを一気飲みして、授業を受けた。

飲み始めたころはお酒はよく効いた。緊張がほぐれて授業に集中できた。
ただそれも長くは続かなかった。

お酒の効きが鈍くなってきたのである。
毎日強めのお酒を9時~16時まで飲んでいるので耐性が付いてしまった。

お酒の度数をより強くして飲めるだけ飲んだ。
こんなに飲んでいるのに緊張するようになっている。
また不安が強くなってきた。

ある日とうとうパニック発作が起きた。

授業中、首、肩、腕の震えが止まらずこのまま狂ったらどうしよう、クラスの人達に気持ち悪い奴とばれたらどうしようと、文字通りパニックに陥った。

ハンカチで顔の片側を押さえ、肘を机について支えた。
もしも異変に気付かれたら、気分が悪いと言おうと決めて、とにかく授業が終わるまで机を見つめてガクガク震えながら耐えた。

パニック発作の症状としては、動悸(どうき)、発汗、めまい、窒息感、胸痛、吐き気や嘔吐、下痢、失神、現実感の消失、死への恐怖です。高齢者では転倒を恐れる、子どもでは迷子を恐れるなどがあります。仮に、動悸や窒息感などで医療機関に駆け込んでも、その時には治まっていることも多く、医師にも身体的異常は確認できないことが多いです。

広場恐怖症|病気スコープ

怖かった。訳が分からなかった。
世の中の全てが怖くて、なぜこんなに怖いのか分からないが怖くて、どうしようどうしよう、とばかり考えた。

どうしたらいいかは分からない。どうしようもない。
お酒の量を増やすのも無理だと思った。
お酒の量や度数をあとどれくらい増やせば、また効くようになるのか見当もつかなかった。
また、見当がついたとしてもそれだけ飲める気はしなかった。

この学校は、大学受験に失敗して入った専門学校だった。
大学受験の際、お酒を飲んでいることはすでに両親にはばれてしまっていた。

さらに、両親は専門学校でもお酒を飲みながら通っていることを黙認していた。
お酒を飲めば学校に行けるのなら飲んでちゃんと卒業しろ、というのが両親の考えだったと思う。

今思うとクレイジーだが、母はお酒をお茶の空き容器に詰め替える手伝いさえしてくれていた。

しかしもう飲めない、これ以上お酒を飲むのは体力、気力の限界だった。

両親にお酒が効かなくなったこと、これ以上はもうできないと打ち明けると精神科に行くようアドバイスされた。

精神科にかかってどうなるものでもない、お酒の飲み方を打ち明けるのが恥ずかしい、酒を飲まなければ授業に出席できず、それすらとん挫したなんて、そんなダメ人間が病院へ行ってもいいのだろうか、そう思った。

それでも他に考えもない。
母と病院に行った。

独りではとてもじゃないが気後れする、おしゃれな街の地味な病院だった。
看護師から招かれて診察室へ入ると、きれいな若い女性の先生だったので引け目を感じてさらに緊張したのを憶えている。

先生に、緊張するからお酒を飲んで学校に通っていたが、授業中に怖くなって震えて狂うかと思った、もうお酒は飲めないから学校にも通えない、そう伝えた。

先生は、私の拙い話が終わると静かに「もっと早く来てよかったんですよ。」「パニック発作ですね。」と言った。

私はただただ流れてくる涙を止められないでいた。
初めて自分の苦しみをねぎらってくれる人に出会った安心感からだったと思う。

薬が処方された。小さな白い錠剤を一日に一粒のむようにとのことだった。

これで人生が開けるかもしれない、こんな粒一つで大丈夫だろうか、私は病気だったんだ、そうか知らなかった、また学校に通えるようになるだろうか、色々な考えが湧いては消えていった。

長い長い、長過ぎる闘病生活の始まりである。




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