見出し画像

【シンガポールのアスファルトの下】

シンガポールに到着してその街並みを見た瞬間、あの人の言った言葉が、ガツンと私の後頭部を殴っていった。
ベトナムの屋台でたまたま隣り合わせたドイツ人バックパッカーの男。彼はフフッと笑いながら言ったのだ。
「なんでシンガポールなんか行きたいの?つまらないよ、本当に。」


私には、シンガポールに行きたい理由など無かった。世界一周券という、一年かけて地球を周るための航空券を買うときに、旅行会社のお姉さんに言われるがままコースを決めた。
「どこの国に行きたいですか?」という質問に答えられなかったのだ。
私は有名な観光地に会いたいのではなく、人間に会いたかったからである。人間はどこにでもいるからである。
結果、お姉さんが世界地図上でスラスラと動かすボールペンを目で追い、たまに頷いていたら行き先が決定していた。
その中に、シンガポールが含まれていたのだった。

           丨
           丨

キャップにTシャツ、バックパック。降り立って初めて目にしたシンガポールは、あまりに無機質で私は愕然とした。
ゴミひとつ落ちていないアスファルトがどこまでも続く。そこから跳ね返す日光は、人工的な匂いを含んでいた。機械的な間隔で整然と並ぶ木々は、自由に風になびくことも許されないかのようだった。ぞろぞろとオフィスから出てくるのはスーツ姿の欧米人。ランチタイムだ。

 
「東京…。」   

私は金をはたいて飛行機を乗り継ぎ、東京に来てしまったようだった。

「あの国は、まだ若い国なんだよ。一見古そうに見える寺も実は最近造られたもので、あれはわざと古く見せかけてんの。歴史も何もない、薄っぺらい国だよ。なんで行きたいの、あんなとこ。」  

ドイツ人の言葉が、あと二、三発この後頭部を殴っていった。

           丨      
           丨

私は二週間、シンガポールに滞在する予定だった。
安宿で日本人滞在者の失恋話に付き合い、マーライオンの側でその口から延々と飛び出るしぶきを眺め、なるほど古めかされた築浅の寺を見学して三日経った。

私はそっと国境を超えた。
偽物の中に埋もれていく感覚と、埋もれ行くのに満たされない空虚感に耐えられず、シンガポールを手放したのだった。
シンガポールでの滞在予定期間をほぼ丸々移行して、隣のマレーシアでは一ヶ月程滞在することになった。
マレーシアは素晴らしかった。生の土を踏みしめている感覚があった。人間はより人間的だった。おおらかで親切な面も、懐疑的で邪悪な面も、全てひっくるめて人間的だった。豊かな自然も、行き交うバイクの排ガスの匂いも、全てが人間的で、私は満たされたのだった。

          丨
          丨

バックパッカーという名称を脱ぎ捨て、妻となり母となった私がある日目にしたのは、シンガポールのドキュメンタリー番組だった。
マレーシアの思い出にすっかり上書きされ、忘れ去られたシンガポール。

あの頃には無かったマリーナベイ・サンズホテルや、セントサ島が次々と紹介される。
私の心は1ミリも動かない。
脳裏にぼんやりと浮かぶのは、無機質で居心地の悪かったあの都会だ。あの都会は今や、大都会になったらしい。
屋上のプールではしゃぐ恋人達を見ても、水族館を満喫する家族連れを見ても、やはり心は1ミリも動かなかった。

はぁ、となんの意味も持たないような溜息を吐き出して、私はチャンネルを変えようと立ち上がった。リモコンは数歩先のテーブルの上。カタン、と持ち上げ、テレビに真っ直ぐ向けた瞬間、そこに映っていたのは一人の男性だった。
涙を流す男性だった。

私は誤ってリモコンのボタンを押してしまったんだろうか。
数秒前のカラフルで鮮明な映像からガクリと落ちた白黒映像の粗さに戸惑う。
画面右上の番組名に「シンガポール」の文字が見えた。
これはやはりシンガポールだ。チャンネルは変わっていない。

「マレーシアに残りたかった。」
そう言って男性は泣いた。

マレーシア連邦に晴れて仲間入りしたシンガポール。天然資源や、国防能力が皆無の豆粒のような島が生き残っていくためには、マレーシアにくっついているしかなかったようだ。
しかし、マレー人だけを優遇するマレーシアの政治に、シンガポール内から徐々に反発が高まっていく。シンガポールはなんとか話し合いで共存の道を探ろうとしたのだが、足手まといだとばかりにマレーシア連邦から追放されることになる。
シンガポールは見捨てられ、生きていく道が完全に途絶えた。

目の前で泣いているのは、大の男だった。
一国を背負うリーダーだった。

彼はその涙の独立宣言から、不眠症を繰り返し、病に倒れながら、シンガポールの基礎を作り、発展させていった訳である。

たったの何十年で、シンガポールは、欧米諸国に引けを取らない国民所得、教育制度、医療制度を築き上げた。

それが、シンガポール初代首相、リー・クアンユーだった。

          丨
          丨

私が勝手に拒否反応を起こし、ろくに見ようともしなかったあの国は、
若過ぎる、歴史も無くてつまらない、と切り捨てたあの国は、
私の想像も及ばないほどの激流と激動の歴史を抱えていたのである。
血を滲ませてなんとか命をつなごうとした男の思いを抱えていたのである。

あの無機質なアスファルトの下に息づいていたのは、生の土だった。

あの日私が降り立ったあの場所が、多くの人々の涙が染み込んだ土の上だったということを、十数年経った今、知ったのである。

私はリモコンを真っ直ぐテレビに向けたまま、リー・クアンユーが噛みしめるその唇をただ見つめていた。

ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!