その時代を病んだ者たち

 小川国夫は講演集『精神のリレー』において埴谷雄高の『死霊』を評して次のようなことをいっている。

文学というものの試みの一つに、その時代の病を書く、ただ書くのではなく徹底して書き尽くすということがある。時代の抱える病を描き、それによって時代を否定し、否定し尽くし、未来への道を開く。そのためには自ら病まなければならない。

小川はキリスト者であるからここでキリストを引き合いに出す。つまりいちど殺され、再び蘇ることによってそれまでの古い宇宙論を覆し、新たな宇宙論を打ち立てたものとしてのキリストである。私はここで小川が現在のキリスト教についてどう思っているか(それがまた乗り越えられるべき古い宇宙論になっているのではないか)と聞いてみたく思ったが、そこでは述べられていなかった。

とにかく埴谷は『死霊』において分身としての病んだ己を登場させ、狂的な饒舌な宣告を行う。そしてそのような黙示的ビジョンにしか未来への可能性はなく、結果的に現在の形式でもってしか未来を語ることはできないと仄めかしている。死を徹底的に突き詰めることで再生へ、復活へ繋がるという見方である。
 ジョーゼフ・キャンベルは『千の顔をもつ英雄』において、

賢いと呼べるのは、宇宙の終わりに思いをめぐらせる者だけである。宇宙の終わりは、宇宙の始まりでもある

というトマス・アクィナスの言葉を引き、こう述べる。

あらゆる神話の基本原則が、この終わりの中の始まりにある。創世神話には、被造物である形が常にその源である不滅のものへと引き戻される、滅びの感覚が浸透している。形は力強く前進するものの、いずれ必ず頂点に達し、曲がり角を過ぎると元に戻る。その意味では、神話は悲劇的という見方もできる。だが、神話がわれわれの存在の本質を、粉々に砕ける形ではなく、またすぐに形が湧き出る不滅のものに根差していると位置づける点では、少しも悲劇的ではない。それどころか、神話的気分が支配的などんな場面も、悲劇的にはなり得ない。むしろ、強いのは夢の特性のほうである。同時に、存在の本質は形ではなく夢を見る者の中に宿る。

また、こうも書く。

悲劇とは形あるものを壊し、形あるものに対する私たちの固執を壊すことである。喜劇は荒々しく無頓着で無尽蔵の、自分ではどうにもならない人生の喜びである。したがって悲劇と喜劇は、両者を内包し両者によって区別される、ひとつの神話的主題と経験を表す言葉となる。

 悲喜劇としての、神話としての、夢としての『死霊』。のっぺらぼうの「神の白い顔」を凝視する、黙示録かつ創世記の著者。神話は時に過剰な悪意や混乱を伴う。そして根深い迷信と悲劇に覆われた宇宙を歓びで満たし、笑い飛ばす。埴谷雄高はしばしば教祖的人物として言及されるが、彼は崇められるべき人間というよりは、乗り越えられるべき人間である。その試みをまた新たな時代の病める人間がまったく違う形で繰り返さなくてはならない。
 ニーチェは『人間的、あまりに人間的』の中で、夢を精神の始まり、死後の世界の始まり、第二世界の始まり、形而上学の始まり、彼に言わせれば大いなる過誤の始まりであるという。また彼はいう。世界には内面も外面もない。ある感情がある思想を真理と認めても、感情の強さは思想の真性を証明しない。それは信仰の強さが信じられたことの真性を証明するものではないのと同じである。しかしある種の感情や思想が「深い」とみなされたとき、その指し示す真性は往々にして高まってしまう。重要なのは生成し発展するこの世界である。その背後にあるものなど一笑に付すべき空虚である。……

 それにしても、ニーチェはなぜ形而上学を徹底的に否定したのか。この文章を読んでいる方なら何となく予想はついていると思われるが、私は今までと同じ文脈にこの答えをひとまず置いてみたい。発狂後のニーチェは自らを十字架にかけられた者と表現したそうだが、彼の死(と再生)は世界の新たな展開を試みた営為とも評価できる。彼もまたその時代を引き受け、徹底的に病んだのである。彼の愛した『カルメン』の前奏曲は、私には悲劇的にも喜劇的にも聴こえる。

 世界は無限の解釈であるともいえるかもしれない。ただしそれは一つの聖書の解釈ではなく、聖書すら含んだ世界の解釈である。我々は被造物であり、創造主であり、衆生であり、仏である。無数の解釈があり、解釈ごとの異論が存在する。我々が一区切りの時間にこだわった時、そこにある種のこだわりが生成する。そのこだわりを生き、病み、死ぬことで新たなこだわりが生成する。そもそも私には、言葉や時代、病というものもある種のこだわり、一つの偏りをもった解釈であるように思えてならない。しかし同時に新たな解釈は新たな解釈を生み出す契機となることも否定できない。

常に、可笑しいほど常に、「今」のひねり出す答えとは「未来」を悩ませる問題である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?