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故郷から見たアジア太平洋戦争 #2 「戦中をめぐる語り合い 前編」

故郷から見たアジア太平洋戦争〜登場者紹介
故郷から見たアジア太平洋戦争 #1 「戦前をめぐる語り合い」

加藤パネラー

昭和十六年、十二月八日に家のラジオでアジア太平洋戦争の開戦を聞きました。

江口パネラー

私は、みやま市の北西部で沖の端川のほとりに居住していましたが、西方三十キロ程離れた佐賀県の諸富のところと思われる上空が火災の数百倍とも言える真っ赤な上空になっていたのを覚えています。空襲の恐ろしさを感じました。私達の上空をB29爆撃機が編隊を組んで度々飛び交っていましたので、何時も心配していました。

我が国は、物資不足で特に兵器を製造する資材が不足しているとの話が出回っていました。すぐさま金属の回収も始まりましたが、我が家では道端に接した大切な鉄製の窓枠も納めなくてはなりませんでしたので盗難の心配が尽きませんでした。

私は、小学校では、正常な授業をほとんど受けていません。戦時中で、学校へは行けなかったし、行った日でも昼になると家へ食べに帰っていました。食べる物といえば、いつもさつまいもでした。

近所に、本郷の今の納骨堂の前ですが、熊川ケチャップという会社がありました。そこでは、兵隊さん達が食事の準備をしていたのを覚えています。

内野パネラー

私の兄はビルマ(現ミャンマー)にて戦死しています。

兄は私が小学一年の時に召集され、久留米の部隊に入隊しました。おじ、おばと何回か面会に行った記憶がありますが、兄はちょうど入隊後一年ぐらいで(昭和十七年)戦死しました。

田中パネラー

私が生まれて半年ぐらいで、父に召集令状がきたそうです。シナ事変での召集です。

のちに「勝ったから、もうすぐ日本へ帰る」と家に手紙が来たそうですが、昭和十六年十二月八日真珠湾攻撃で大戦に突入し、父は日本に帰る事なく南方に連れて行かれたそうです。

大戦中父からの手紙によると「南シで勝ち、十二月に日本の船に乗り、お正月は日本で迎えるはずだった。しかし船中で皆に夏服が配給されおかしいと思った。真珠湾攻撃で戦争が始まり、南方に連れて行かれた。正月は、食糧がなく、三人でパイナップルの缶詰で祝った」との、手紙の内容だったそうです。

母は父からの手紙を焼いてしまって、後で「申し訳ない」と私に言いました。

大戦中私は、大牟田市の鳥塚町に住んでいました。空襲警報が鳴ると、子供の私も防空頭巾をかぶせられ、親から引っぱられて防空壕に連れて行かれました。

空には、B29がバラバラと爆弾を落として行き、向こうへ行ったかと思えば、又引き返して来て、又バラバラと落とします。爆弾が落ちたあとには、大きな穴があき、大人が穴の底から穴の渕まで手を繋げば、七人分もある大きな穴でした。

近くでは、母親が子供を防空壕へ連れて行こうとすると、それを嫌がり、逃げて行った時、子供は一人助かったがしかし防空壕に爆弾が落ちて、母を含め防空壕の中に居た人達は全員亡くなりました。

爆弾が落ちたあとは、木に人がぶら下がり、髪の毛がひっかかったりとむごい光景でした。

菊次パネラー

戦時中、サイレンが鳴ると、学校からすぐ家に帰っていました。学校帰り、畑のなつ豆を生のままで食べたり、道ばたに食べられるズバナ、スイカンボ等の野草があると、いつもそれを食べていました。終戦時は小学一年生でした。

さっきの田中さんの話ですが「大牟田のある防空壕に爆弾が落ち防空壕内の人達が全滅した時、その時防空壕に入るのは嫌だと逃げ出した女の子が一人助かった」というその女の子というのは、大牟田から浜田へ疎開してきた友達の事のようです。

梅野パネラー

食料がなく、男性は皆召集され、戦争に行くから、働き手が居なくなりました。農家は一気に人手不足になり、小学生も食糧の米作りの田んぼ等に勤労奉仕に行きました。

私は、当時、瀬高から山川へ奉仕に行きました。少し上の人達は、上陽町や大牟田市へ行かされました。田舎へは、田植えや稲刈り、男の人は大牟田の工場へ行きました。きつくても皆がそうだったので、協力し合い和気あいあい、最初はそれなり、幸せと思っていました。

私はその当時は清水校区内に住んでいました。清水女山地域には、今の杉本さん宅に兵舎が有り、兵隊さんがいっぱいいて、軍隊行進がずっとあっていました。清水でも空襲があり、当時の清水小学校がグラマン戦闘機からの爆弾で、日本の兵隊さんが死んだりと犠牲者も出ました。

戦争がひどくなるにつれ、配給が少なくなっていきました。夜には、近くの民家に、兵舎から兵隊さんが遊びに来るようになり、私の母は、兵隊さんが来るとだご汁をいっぱい作り、ご飯を出していました。

その頃は、今と違って、どこの家庭も大家族でした。家の男性に召集令状が来たら、喜び人前ではバンザイで送り出すが、妻は人前で涙を見せる事は出来ず、一人ふすまの陰で泣いていた…と云うのが実情でした。

私の姉は当時東山村の役場に勤務していました。召集令状を柳川まで貰いに行き、それを家庭に持っていくのです。受け取られる方は、どんな心境だったのか、顔と心は真逆で複雑だったと思います。姉は、又一方、戦死の公報も配らないといけませんでした。兄は自分から志願して入隊したそうです。

航空母艦に乗っていたそうですが、敵の機銃掃射を受け、兄は気絶したそうですが、隊長の「皆飛び込め」の命令で、皆海に飛び込みましたが、船は沈み、その船と一緒に犠牲になった人も沢山いました。気絶していた兄は「梅野!梅野!」と起こされ、皆一生懸命泳ぎ、鹿児島の鹿屋にあがり着いた。兄は助かりました。

「特に、沖縄は哀れだった。血まみれになり、死んでいった人を大勢見た。食べ物はない。戦う道具もなかった…」との事です。

野田コーディネーター

清水小学校が爆撃を受け、日本兵士がお亡くなりになりましたこと、初めて知りました。身震いするほど強い衝撃を受けました。多分、市民の皆さんもほとんどご存じないのではないでしょうか。風化させずに語り繋いでいく大変重要な事柄ではないでしょうか。

そのほか、このような痛ましい爆撃の傷跡はないでしょうか。

内野パネラー

国鉄瀬高駅と佐賀駅が結ばれていた佐賀線があり、また特急列車が停車する唯一の瀬高駅で多くの乗客で栄えていたのであります。そのような事から敵国から狙われていたようです。

そして、上り列車が瀬高駅を出発直後にグラマン爆撃機から機銃掃射を受け、機関士の一人の方が、お亡くなりになっています。民間の犠牲者で残念であります。

小宮パネラー

高田町の開の地域一帯では、工業地帯である大牟田市の空爆目的地の旋回区域になっていたようです。甘木山を越えて高田に入り旋回するグラマン爆撃機等が数多く飛来し、その際、民家等を襲撃し被災されていたようです。

爆撃機が度々やってきますので田んぼでガンズメオシ器(注2)を使っている時は、近くに防空壕がありませんので、麓のクリークや川に突っ込み顔のみを出して避難していました。とても恐ろしかったですね。
〈注2:水田の中の雑草を取るもので、ブリキ板の爪を回し押して使用する簡易な農具〉

野田コーディネーター

民間人の方を含めて、空爆で爆死されていること、しかも長閑な地帯で三か所も起きていた悲劇は市民の皆さんも、ほとんどご存じないと思います。
忘れてはならない史実として記録し繋いでもらいたいものと考えます。

〜続く〜

故郷から見たアジア太平洋戦争 #3 「戦中をめぐる語り合い 後編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #4 「戦後をめぐる語り合い 前編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #5 「戦後をめぐる語り合い 後編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #6 「発刊に寄せて〜みやま市遺族会 会長 野田 清」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #7 「はしがき・あとがき〜編集委員会 委員長 野田 力」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #8 「編集委員会構成メンバーからの一言」
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