故郷から見たアジア太平洋戦争 #1 「戦前をめぐる語り合い」
野田コーディネーター
只今から討論会に入らせて頂きます。
故郷からの視点と一概に言いましても、みやま市は広範囲であり、それぞれの旧三町は、その当時、経済の営みや歴史文化・教育等を巡っても些か特色を有していたものと考えられます。
そこで。パネラー出場の方は、瀬高町が八名、山川町が三名、高田町から四名での編成登場でありますので、足元の特色を含めて故郷の状態を大いに語り合って頂きたいものであります。
また、アジア太平洋戦争を巡る討論範囲は、戦争が起きる前半と突入後から終戦までと、戦後の立ち直りの状況迄は、随分、背景が異なりますので、討論の進め方としましても区域を分けて行います。ご了承願います。
先ずは、お手元の資料に基づき、登場者であるパネラーの皆さんと司会の役を仰せつかっているコーディネーターの自己紹介をお願い致します。
それでは、アジア太平洋戦争の前期に亘る戦前の範囲でご討論をお願い致します。
発言につきましては、順次進めて下さい。
【戦前をめぐる語り合い】
江ロパネラー
父が出征する前には、風呂(銭湯)に連れて行ってもらっていたのを小さいながらこのことだけをしっかり覚えております。
加藤パネラー
私は戦前、昭和十四年に小学校一年生へ入学しました。戦争前の子供時代は、山川町の山には果物はあるし、小鳥を取って食べたり、川では、うなぎ、えび、かに、なまずも取れて、それを取ったりと、遊びながら皆、楽しく過ごしていました。
梅野パネラー
大戦前は、大した不自由もなく、私を含め近所に子供はたくさんいるし、まわりの大人の方からもかわいがられ、皆楽しい毎日を過ごしていました。
学校の帰りに、近所の大人の方に焚火にあたらせてもらい、親切にしてもらっていたことを覚えています。
中山パネラー
父は、大戦前のシナ事変で昭和十二年十二月四日に亡くなりました。
母は八幡で父と結婚、私を含め、娘三人をもうけました。父は八幡製鉄で働いていましたが、三女が生まれた時に召集を受けました。久留米部隊に入隊しました。
久留米からシナに出征する時、「八幡を通るから、跨切で待っててくれ」という父からの手紙が来ました。
母子で八幡の踏切に別れの見送りに行きました。
汽車が来て、兵隊さん達が皆窓を開け、白い手袋で手を振ってくれました。父はにわかせんべいに日の丸の小旗をつけ、私達子供に投げて渡してくれました。
「中山さんの妻子が踏切に見送りに来てるそうだから皆で手を振ろう」と達示が廻っていたそうです。
私はその時五歳でしたから、しっかりこの場面は記憶に残っています。これが私達母子にとって、父との最後の別れとなりました。
小宮パネラー
私の父は、小宮家に養子入りしました。
父は昭和十二年シナ事変で出征した時は知らなかったが、三年間行って帰って来た時は覚えています。
父が出征した後、我家は、母と私達姉妹四人の女性だけの家族構成になりましたので母は心細く、大変苦労したようです。
樺島パネラー
私の小さい時の父の思い出は、父はクモ手(注1)を使っての魚とりが好きだったので私はいつもバケツを持ってついて行ったことを今でも懐かしく思い出します。
〈注1…クモ手は、直径二メートル程の竹の輪に網を広げて魚をすくう漁具〉
桑野パネラー
私の両親は、戦前、満州開拓民団で満州に渡りました。私は、昭和十五年満州にて生まれました。満州は本当に広くて、太陽は地平線に沈みます。昼は長く、冬というと、気温がマイナス四十℃くらいになり、とても寒いです。
火を床で燃やし、家の中はとても暖かく、冬でも家の中では服一枚でいられるほどでした。窓も二重窓でした。
日本から当時みかんや納豆を送って来ていたのですが、とてもおいしかったです。みかんは送っては来るがガチガチに凍っていて、火に乗せて温めて食べました。
夜は家の周りにはオオカミがいっぱいいるし、絶対に外へは出られません。
父は大工でしたが、満州は全て土を加工しての土小屋(どべ小屋)で大工としての仕事はありませんでした。
野田コーディネーター
戦前を巡る情景を含めてお話頂きました。誠にありがとうございました。
私としましては戦前のことですので全く分かりませんが、母が、戦前は自由に屈託なく友達と語り合って明るく楽しく過ごしていたと言っていましたことを思い出しました。パネラーの皆様からのお話で大正デモクラシーの雰囲気がまだ少し残っていたのかなと感じられたのではないでしょうか。
愈々、過酷で厳しかった戦中に入らせて頂きますが、深刻で苦難の体験や祖父母・母様等からの言い伝えを含めて、ありのままをお話頂けたらと思います。
どうぞ、宜しくお願い致します。
ご発言につきましては、順次、進めて下さい。
〜続く〜
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