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故郷から見たアジア太平洋戦争 #5 「戦後をめぐる語り合い 後編」

故郷から見たアジア太平洋戦争〜登場者紹介
故郷から見たアジア太平洋戦争 #1 「戦前をめぐる語り合い」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #2 「戦中をめぐる語り合い 前編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #3 「戦中をめぐる語り合い 後編」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #4 「戦後をめぐる語り合い 前編」

野田コーディネーター

伝敬寺のお寺様からのお話によりますと、終戦後まもなくして進駐軍の軍人三人が訪れ、いきなり見聞にやってきたそうです。そして、畳敷きのお御堂に土足で上がってきたが、怖くて抗議ができなかったそうです。

進駐軍との関わりはないでしょうか。

加藤パネラー

戦後いろんな噂話がありました。「アメリカ兵が女性に悪さをするそうだ。女性は山へ逃げろ!鬼畜米兵!」いろんな噂が流れましたが、実際はそうではありませんでした。

復員してきた兵隊さんから戦後に話を聞きました。

「戦争だから、鉄砲の玉で死ぬのは仕方がないが、鉄砲もない、玉もない、食べ物もない、そんな中で何人も死んでいった。どういうことか、悔しかった…。」と。

私は県教職員海外研修に参加し、帰国報告会でイタリアに派遣された人の話が心に残っています。

あるイタリア人の話。
「イタリアは早くに負けたが、イタリア魂は売っていないが、日本は戦争に負けて、日本人の魂まで売った」と。

これを聞いて悔しかったが、確かにそういう面もあると思いました。

龍パネラー

父は終戦後、家に帰って来ました。大村に行っていたと、言っていました。

空襲を受けた大牟田の我が家には、どうしてか他人が住み着いていました。

戦後は物もなく、厳しい状況でした。紙も少ない、習字紙が一枚一円でした。

私は村に来る紙芝居が楽しみでした。五円で見られました。かき氷五円、夏は楽しみでした。

大牟田では学校給食が昭和二十五年に始まりましたが、コッペパン一個、脱脂粉乳でしたが、おいしくありませんでした。

国民学校で、ランドセルは段ボールに色付けしたもので、机はりんご箱でした。

牟田ロパネラー

父の戦死の公報が紙切れ一枚で来ましたが、母は信じがたく、必ず帰ってくるはずと、いつもお宮やお寺にっていたことを幼少ながらによく覚えています。

田中パネラー

私は遺族会の役員として会の世話をしております。先だって、県の遺族会より知らせがあり、アメリカオレゴン州から日本の兵隊さんの出征時の寄せ書きした日本の旗が返されました。高田町の会員さん宅の英霊の物だったので、遺族に代わり私が貰いに行ってきました。

厚生省の事業で五回も戦地への遺骨収集に参加しました。そこで感じたことですが、戦死した兵隊さんの扱いがちゃんとしている所を話したいと思います。

戦地各地に埋まっている遺骨についてですが、必ずジャングルや木の根っこに埋葬してありますが、感心するのは、どの遺体も、日本の兵隊さんは、頭を日本の方に向けて、アルミのコップを頭に置いて、その人の遺品もそばに埋めてあります。風化はしていますが、手を必ず組ませて、ちゃんと埋葬してあります。

一ヶ所だけは、大きな穴に何十体と折り重なって出てきました。たぶん日本の生き残りの兵隊さんが埋めたのでしょう。労力がなかったのでしょう。

一部現地の人は、骨が埋まっているとは知らず生活の場となっている所もあります。そういう所は、現地の人に立ち退いてもらい収集する所もありました。かまどの横から出てきた所もありました。

遣骨は、一体一体検体し、火葬し、白い袋に一体ずつ入れて、連れて帰ってきます。

戦争とは、人と人が、国と国が殺し合うことで、とても残酷なことであり、多くの人が嘆き、悲しみ、苦しむことで、失うものはいっぱいあっても、得るものは何もなく、絶対あってはならないことです。

小宮パネラー

父は昭和十九年十二月二十八日硫黄島の野戦病院で亡くなりました。戦後、一緒だったという部隊長さんより「あなたのお父さんを看取った」と聞きました。

父は姉妹四人と母を残しどんな気持ちで死んでいったのか…。妹たちは小さかったためか、父の顔はよく覚えていないと言います。

父が死んだ後、姉と私の二人は父の実家に引き取られ、二人の妹達とは別れることになりました。

父は「学校での勉強をしっかりしろ」と言っていましたが学校制度が変わり、試験は受かっていましたが、貧しさの為続ける事が出来ず、中卒となってしまいました。

本当に悔しく、悲しい思いをしました。とても苦労しました。父と別れた西鉄の開駅に行くと、当時の事などが思い出され、今でも涙が出ます。

桑野パネラー

満州開拓団で満州にいた私達ですが、父は中国に戦争のため出征しました。終戦になり、私達は昭和二十一年日本へ引き上げ帰ってきました。着いた港は博多港でした。

終戦を迎えた後も、父は家に帰るのではなく、中国からソ連に抑留されました。そして、昭和二十三年に父は帰ってきました。

私は本当にびっくりしました。私が小学二年生の時でした。

父が復員して家に帰ってきた時の話です。

戦争が終わって、中国からソ連に抑留された。自分は大工だったが、満州は木造の家ではなかったため、仕事がなかったが、ソ連では、大工として、いろんなものを作ってやった。そのため、とても重宝され、かわいがられた。そして人より早く日本へ帰ってくることができたとのことです。

しかし、父は病気の体での帰国で、ストレプトマイシンの薬を持ってきていました。父の兄(伯父)が家を建ててやりましたが、病気が原因で日本で亡くなりました。

私は戦争の恐ろしさは知りません。満州では飛行機は飛んできませんでした。父が出征した時私は満州で四歳、妹は生まれて八カ月でした。

私が眠っている時に父は出征したようで、私は母に「なんで父ちゃんはおらんと?」と聞くと、母は「戦争に行った」と言うだけで、あまりしゃべる事をしませんでした。母は、父のいない満州でとても寂しかったと思います。苦しかったと思います。

満州では、ある日、一晩でいっぺんにお墓ができました。相当、多くの人を埋めたようでした。

梅野パネラー

私の実兄について、もう少し重複しますがお話したいと思います。

兄は、入隊し早速サイパン島の激戦地に戦艦に乗り派兵されました。米軍の空爆を受け、撃沈されほとんどの海軍兵は戦死、兄は戦艦の沈没の渦に巻き込まれないように泳いで九死中、生き延びました。それからは、玉砕戦地といわれる硫黄島に派兵されるも、ここでも生き延びました。その後、さらに沖縄激戦地に向かわされましたが、ここでも生き延びたのであります。ともかく強運を受け復員しました。

しかし、地域の皆さんからお兄さんの目つきが鋭く尋常でないと言われていたそうです。お酒を浴びたりで落ち着いた生活ができなかったようであります。厳しい精神障害を受けていたのでしょう。

そして、五十歳半ばで亡くなりましたので、まさに戦争の犠牲者なのです。
復員された多くの方々も、多分大きなトラウマを抱え、永年、苦しまれたことだろうと推察します。

樺島パネラー

父は硫黄島にて戦死しましたが、毎年篠栗の慰霊碑の前で慰霊祭があっています。毎年家内と参りますが、今では皆さん高齢になられたため、だんだん少なくなってきています。

遣骨収集も国の事業としてあっていますが、父の眠る硫黄島にも、まだ一万二千体ほどの相当の方が埋まったままです。遣族としましては、早く日本へ連れて帰ってもらいたいです。

なぜ、硫黄島の収集が遅れているかというと、当地には日本軍の基地があったので、そこへ米軍が相当の攻め方をして、火炎放射機で上から下から攻撃し、島が変形するほどでした。大勢の人が埋まっています。

その後米軍が飛行場の滑走路を作ったりしたとかでその下になったりして、収集が遅れていると聞いています。

野田コーディネーター

戦争の多大な被害と悲惨さは計り知れないものであります。

ともかく、戦争は絶対に二度とあってはならないものでありますが、戦争が起こらないようにするには、どうすればよいでしょうかね。

それは、大変大きな問題で難しすぎるのではないかとの声が出ているようでありますが、如何でしょうか。

梅野パネラー

人々が美しい自然を大切に守り愛し、人々を尊敬し睦まじく助け合い、我欲に陥らない豊かな心を養っていく事を日常生活の中で養っていく事が、まず、肝要ではないでしょうか。

野田コーディネーター

人間性を養う根本的で普遍性ある心構えで、しかも含蓄ある必須条件を述べて頂きました。

しっかり心の中で育まなくてはならないものであると感銘いたしました。

このことは、国際社会におきましても相通じるものと言えましょう。

私達の日常的な皮膚感覚で国際社会の平穏を求めるとするならば、人類の尊厳を称え、他国への不可侵、友情友愛、友好親善、相互信頼関係を高め、生きる喜びを分かち合うこと。さらには恐怖や不信の念を無くしつつ、共存共栄等を高めて、平和構築の理念を普段から怠らずに誓い合っていくことが重要かつ不可欠であるものと思われます。

しかし、平和の尊さは、分かっているが、意外と日常生活の多忙さで避けて通り過ごし、そして、ついつい忘れられていることが常日頃でなかろうかと思われます。

歴史は、繰り返すと言われていますが、もしも、絶対に起こしてはならない世界大戦争が勃発し原爆を投下し合うことになれば、人類の滅亡はもとより地球自体が破壊されるものとなるでしょう。

ともかく、愚かなる戦争は二度と起こさず、戦争の火種は速やかに消す、戦争は無益であることを固く確認し合いながら生き抜き、繋ぎ、歩み続けることが極めて大切ではないでしょうか。

今回の討論会は、パネラー皆様から戦争への怒りと平和の尊さ、これからに対する心構え等を含めて熱心に語って頂きました。誠にありがとうございました。

おかげさまで貴重なる語らいの記録集が、編纂できるものと考えられますので早めに関係各位にお届けされるよう働いてまいりたいと考えております。
最後に、コーディネーターの不慣れで皆さんに種々戸惑いを与えたことと存じますが、ご容赦のほどお願いいたします。本当に、二日間のご討論、誠にありがとうございました。

〜続く〜

故郷から見たアジア太平洋戦争 #6 「発刊に寄せて〜みやま市遺族会 会長 野田 清」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #7 「はしがき・あとがき〜編集委員会 委員長 野田 力」
故郷から見たアジア太平洋戦争 #8 「編集委員会構成メンバーからの一言」
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