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イエス・キリストの限界

先日、ひょんなことから、とある方の座談会というものに参加することになり、行ってきました。その方は、ネット上ではそこそこ有名で、私自身、今、自分が進めている政治関連のプロジェクトで、もしかしたらお声がけすることがあるかもしれないという思いもあり、顔を出してみたのでした。

しかし、ああいう集まりというのは、なかなかに難しいものです。

以前、記事に書いたことが、そのまんま起こっていました。一言でいえば、あまり考えていない(自分で答えを探せない)人々が集まって、そんな人々によってカリスマを生み出す会でした。

知識や知恵の面で、少しでも優れたカリスマのような人がいてしまうと、そこに集まる人々は、自分が抱えている問題の答えを、目の前にいるカリスマに求めてしまいます。心境としては、よく分かります。でも、それではいかんのです。

自分が抱えている問題と向き合わず、安易に自分の外側に答えを見出そうとする人々の癖は、なかなか抜けません

その座談会のなかで、それが顕著に表れていたのが、例えば、そのカリスマが「怖れを知らない自由な魂」を手に入れることが重要という話をしたときのことでした。

参加者の一人が、「それはすごいと思います。でも、その『怖れを知らない自由な魂』を手に入れることによって、殺人を犯したりする人がいたら、困りませんか?」という質問をしていました

私は、啞然とするしかありません

(あのさぁ・・・あなたはその「怖れを知らない自由な魂」を手に入れて、殺人を犯すようなことをするんかい?あなたの問題ですぞ?この話を聞いて、あなたがどうするか?という話なのだ。他人のことはどうでもいい自分の内面と向き合いなされよ。外側に答えを見出そうとする癖、まずはそこから直さなんとね)

もっといえば、このとき言われている「怖れ」については、ちょっと生活が困るとか、健康被害が出るとか、その程度のことでは済まされません。真剣に「怖れ」と向き合っている人であれば、それが自分が無一文になるであったり、家族を失うであったり、自分が死んでしまうといったようなレベルのものであることを理解するでしょう。

それらは、自分の命や生きていることの意味を考え抜いていたら、当然、向き合わなければいけない問題です。

しかし、人間は弱い生き物です。目の前に解決策を示してくれるカリスマがいてくれたら、そんな核心的な問題について、自分の内側に答えを見つけようとせず、カリスマに群がるだけになってしまうというわけです。

当然、真に「怖れ」の意味も、理解できません


少し違う話に聞こえるかもしれませんが、そんな人類の弱さが生み出したもののひとつが宗教であるともいえます。

これまでの歴史の中で、宗教が必要とされていたのは、人類が手に入れるべき「宗教観」にたどり着くまでの補助輪のようなものだったからだと思えてなりません。
これからの時代、本来手に入れるべき「宗教観」に辿り着き、人類一人一人が、それぞれ「自分自身が神様だ」と思えるくらいになってもいいのではないかと思うのです。上掲記事にもある通り、その言葉の裏には、一人一人が「高いプライド」、「他者への敬意」、「「この宇宙へ」の慈愛」を持つべきことは言うまでもありません。

「明確な「宗教観」を持ってみよう」より引用

宗教が悪だと断じるわけではありません。歴史上、宗教には宗教の役割があったと思います。

しかし、宗教には「仕方なく生まれた」くらいの理解も必要です。「仕方なく」というのは、人類の弱さゆえです。人類が、本来の「愛」や「知恵」の本質的な意味を知り、強さを備えていたら、宗教は必要なかったことでしょう。

最も核心的な部分を述べれば、人類ひとりひとりには神性が宿っており、ひとりひとりが神であるということを自覚することこそが重要なわけです。それができていれば、宗教などは必要ありません

「自分教」なので、自分自身が教祖様です。入信されても構いません。しかし、入信された瞬間、その人自身が「自分教」の教祖様になるだけの話です。組織にはなりません。自分が、勝手に「自分教」を開いて、自分自身が教祖様となり、自分自身が神様としての自覚を持つというだけのことです。
そう、偉く簡単な宗教です。

「宗教は「自分教」でいこう」より引用

自分自身が神様としての自覚を持つ・・・つまり、世界(宇宙)の問題は、常に自分自身の問題であり、必ず自分のなかに答えがあるわけです。


そういう意味で、イエス・キリストという人物は、私たちに極めて重大な宿題を残していったともいえます。

一人一人が神様になるということは、十分に可能だと思っています。
話をクリスマスに戻しますが、イエス・キリストという人物も、実はそういうことを言いたかったのではないかと思ったりしています。
一人一人が「神様」というくらい尊いものであり、それにふさわしい本質を備えていると考え、それを信じていたように思うのです。まさか、自分の名前を冠した宗教ができあがり、救世主などと呼ばれ崇め奉られ、世界中の人から誕生を祝われる・・・。
もしご本人が現世に蘇って、今の世界を見たら、「ちゃうねん、そうじゃないねん。わしなんて、どうでもえーねん。皆がちゃんとせなあかんねんで?(謎の関西弁)」・・・そんな風に思うんじゃないかな?などと勝手に思ったりしています。

「クリスマスを楽しみましょ」より引用

結局、超人的な存在であったイエス・キリストは、その特別さゆえに、ウルトラスーパーカリスマとして君臨し続けています。そして、今も人類の弱さを許容し続けてしまっているわけです。

結果的に、弱い人類はいつまで経っても、そんなウルトラスーパーカリスマにすがり続け、未だに自分たちの神性に気付けずにいるという構図になっているということです。


しかし、繰り返しですが、それではあかんのです。

カリスマなんて必要ありませんウルトラスーパーカリスマになってしまったこと自体が、イエス・キリストの限界なのです。

ということで、今の私たちが実践すべきは「ひとりひとりが神様!」という世界に生きることです。それこそがイエス・キリストという人物が、私たちに残していった宿題をこなすことにも繋がるでしょう。


てなわけで、私たちの田んぼには、一切のカリスマは存在しません。ひとりひとりが自らの神性を育みつつ、農作業をしております。座談会もしていません

真ん中で、偉そうにしていますが、私はカリスマではないです(笑)。

ひとりひとりが主役・・・何やらスーパー戦隊っぽい雰囲気もありますが、そんな感じでいいんじゃないでしょうか。


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