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最強なのは「命知らず」

ちょっとだけ自分のことを書きます。

私は、幼少のころから、とにかく死ぬのが怖かったです。おそらく幼稚園くらいのときだと思います。夜になって床に入って考えることは、いつも「死んだら、どうなるんだろう?」ということでした。

私は生まれてくるとき、ものすごい難産だったようで、最後、頭を器具で掴んで引っ張り出したという話を聞いています。そのせいで、生まれたときには、頭のカタチが歪んでいたそうです。ものすごい危険な状態だっため、幼いながらも死を意識するようになったのかもしれません。

永遠に蘇らない、永遠に目覚めない、永遠に消えたまま、永遠に・・・、永遠に・・・。

もう怖くてたまらず、よく一人で泣いていました

けれども、大人たちをみていたら、全然、平気そうにしています。幼い私は「大人は、死ぬなんてちっとも怖くないんだ。さすが、大人はすごいなぁ」などと感心していました。そして、いつか自分も大人になったら、死ぬのなんて怖くなくなるんだと思っていました。

しかし、大人になっても、まったく死への恐怖はなくなりませんでした。不思議でたまらず、周りに聞いてみたら、あまり死ぬことを考えていないということだったので、ちょっとビックリしました。

こんな大事な問題なのに、なんで考えてないんだ!?」

大人になって、しばらくしてから、世界が大変なことになっていることに気づきました。とんでもなく大変なことです。

当時、私にはまだ小さな子供がいました。子供を抱いていたら、それはもう幸せな気持ちになります。そして、その抱いている子供にも、同じように幸せな気持ちを味わってほしいと思いました。

そう思ったら、自分の命は、そのために使えばいいと思えるようになりました。今まで抱いていた死への恐怖は、スーッと消えていきました

子供たちのために世界を残そう。そのために命を使おう。」

文字通り、「使命」というものを感じた瞬間でした。それまであんなに怖かった死が、全然、怖くなくなりました

それから、ギリギリまで命と向き合うような体験もしました。

そんな経験をしたので、私は、一回死んでいると思っています。だから、「生きているだけで丸儲け」です。

命が惜しいとは思いません。かといって、命を粗末にしようとも思いません。使うべきところに使うのです。

よしりん先生が、とても大切なことをおっしゃっています。

地位も名誉も金もいらない人間っていうのは、最強だよ。

そう、そう思います。けど、そこにもう少し付け加えるのなら、命すらいらないという人間は、本当に最強です。

命を捨ててはいけません。ダメです。しかし、惜しんでもいけないのです。

命を失うというのは、とても怖いことのはずです。当然です。だから、大いに怖がっていいと思います。どうあがいても、死を避けることはできません

ならば、その恐怖と向き合った方がいいです。

そして、その恐怖を乗り越えるために必要なことは、「このためだった死んでもいい」と思える「何か」を探すことです。

死への恐怖が大きければ大きいほど、その「何か」は大きなものでなければ釣り合いません。そうでなければ、その大きな恐怖心を取り除くことはできないのです。

だから、死は大いに恐れるべきです。その代わり、それと引き換えに大きな「生き甲斐」や「使命感」を掴み取ることができるようになります。

命を惜しまない」と「命を大切にする」は表裏一体です。それと同じように「何のために死ぬか」と「何のために生きるか」も同義です。

大きな「死」を真正面から受け入れることで、大きな「生」を手に入れるのです。


悟りの世界というのがあるといいます。その世界に到達するには、いろいろなアプローチの仕方があろうかと思います。瞑想や座禅のような方法も、非常に有効な手段でしょう。

それとあわせて、私は「死の恐怖と向き合うこと」も、非常に大切なのではないかと思っています。


ちょと話が横道に逸れるかもしれませんが、現実世界から目を背けて、スピリチュアル系の話にばかり走る人がいます。辛い現実からは目を背けて、「ポジティブにいきましょう」というやつです。

しかし、現実から目を背けてポジティブになったところで、その先にあるのは虚構でしかありません。スピリチュアルのような、目に見えない世界も大切ですが、けっして現実から目を背けてもいけないのです。

現実から目を背けないという意味においては、死についても同じことが言えます

いずれ死ぬという現実から、けっして目を背けるべきではありません

よーく考えてみてほしいのです。幼い私でもできたことです。真剣に死ぬことを考えたら、怖くて怖くて眠れなくなると思います。それくらいでちょうどいいのです。

その恐怖を乗り越えたとき、命すらいらない・最強人間ができあがります。もちろん、悟りのような世界にも到達できることでしょう。

要は、自分自身が「私、神様です」と言えるかどうかだけの問題です。自分で「私、神様です」と言ってしまった者勝ちなのです。それだけで、人は神様にもなれると思います。

「神様ですけど何か?」より引用

ここに到達すると、3次元世界でワチャワチャやってる人たちには、きっと負けなくなります

何も怖くないです。

仮にそんな「命知らず」な人間が、3次元世界でワチャワチャやっている人たちにやられてしまうとしたら、「そんなくっだらない3次元世界、こっちから願い下げだわ。さっさと失礼したる!」ってなもんです。

怖くもなんともありません。むしろ、せいせいします。でも、逆説的ですが、それくらいの覚悟でいるとやられんのです。

それが本当かどうか?

まぁ、それは人生を通じて、お見せしていく感じでしょうかね。そして、そういうことに気づいた人たちが多くなればなるほど、この世界は、ものすごくよい方向に動いていくように思っています。

命は惜しまず、大切に・・・です。


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