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はじまりはいつもカオス

毎回のことだが、何を書くか迷う。僕が思う未来、教科書的なこと、プロジェクトの話、時事ネタ、無限にある疑問。読み切りだから前後がつながっている必要もないので、その時一番筆が走るものを書くのが良いだろうか。そうすると、今日は僕の頭の中がいかにぐちゃぐちゃかを書こう。読んだ人のためになるようなことは出てこないが、ネタ的には面白いかもしれない。それに、ここにエントロピーを捨てれば、少しは頭がすっきりするかもしれない。

オリーブのはじまり

このプロジェクトが始まるまでの時系列は以前に書いた。今日は始まったその瞬間の話をしようと思う。取ってつけたような綺麗な動機とか、ビジネスとか、そういうつまらない話は忘れることにする。

自動車に乗っている人の感情を知りたいという素朴な理由から、感情を扱うということが決まった。しかし、具体的に何をすればいいのかはまるでわからなかった。そんな状況でとりあえずマインドマップを描くことが最初の仕事だったと思う。自分の頭の中で考えつく感情に関連しそうなことを列挙していった。残念なことに、当時Xmindでつくった図が見つからない。感情を扱うのは心理学、心って脳で作られているから神経科学、神経って身体を制御しているから生理学、生理学もあるなら病理学。こんな感じで関係のありそうな事柄を書き出していく。僕の中途半端な知識と面倒な性格が混沌を産むことになる。

構成主義

僕の頭の中を漂っている大きな思考パターンがあるのだが、これらの間に繋がりが見えなかった。何かしら研究の中心となる事柄を探していたわけだが、これが厄介だった。そんな思考のかけら、そして混沌の元凶を少し紹介する。

何年か前に、社会学者の友達にK.J.ガーゲンのあなたのための社会構成主義を勧められて読んだ。これまでの知的な出会いで一番示唆を得られたと思うし、今では中心的な考えになった。人間の生得的に固定された部分は思った以上に少なくて、それまでに関係を持った人間や思想、環境に影響を与えられて形作られている。そんなふうに考えると、機械的な人間観が保てなくなりそうになった。きっと感情を考えるにも、ハードウェアとしての人間を考えるだけでは不十分なんだろうと。

進化心理学

博士課程を中退する前後だったと思うが、知能のパラドックスという本を手に取った。最近読み返す機会があったが、眉唾なネタも多い。ただこれが非常に面白い。進化心理学に関する本なのだが、人間の心理的性質がどうやって進化を通じて形成されたのかが書かれていた。これ以前に、リチャード・ドーキンスの利己的な遺伝子を読んだことがあったので、進化論の概念は割とすんなりと理解できた。

どうも人間の心というのは幾らかは生まれもっているもので、幾らかは環境で変化するものらしい。心の存在とは一体なんであるか本当にわからなくなった。感情は生まれ持っているものか、後天的なものか。後天的なものだとすると、感情を測るとはいったいどういう問なのか。この考えを無視するという選択肢もあったと思う。

言語ゲーム

学生時代、研究の気分転換にウィトゲンシュタインを読んでいた時期があった。論理哲学論考青色本哲学探究が代表的な著作だが、最初に読んだのは原因と結果:哲学だった。「椅子を知らない子供に、これはイスではないとわからせることができるか(手元に本がないから正確ではない)」といきなり議論が始まり、読者をおいてけぼりにする。

概念や言葉に関して彼は非常に慎重に論を進める。ウィトゲンシュタインと言えば言語ゲームだが、僕もこれが一番印象的だった。文字通りの言語に限らず、ノンバーバルなものもゲームをプレイしていると考えると、個体が生得的に持っている以上のもので社会が作られているように思えた。大局的なルールをもたずに生まれた人間が、なぜ協調して意思疎通ができているのか。全ては文脈の中でのみ存在できるが、文脈とは一体何者なのか。鋼の錬金術師の「一は全、全は一」を思わせる。それぞれの人間が一で、文脈が全なのだろうか。現在のOliveの活動で文脈がどうこう言っているのはこの辺りの思想の影響が強い。

ディープラーニング

世間的にディープラーニングが流行り出した時期だった。データサイエンスにはほとんど興味がなかったが、コネクショニズムは面白いと思った。社会人になる直前くらいに人工知能学会が出している深層学習を読んだ。なぜか神経科学ではなく機械学習の本で可塑性を知るのだが、この概念を知ることは大きな意味があったと思う。やはり、人間は固定的なものではないらしい。

アルジャーノンに花束を

僕はあまり小説は読まない。物語を読むのは好きなのだが、どうしても専門書を読むのに時間が必要だから優先度が低くなる。それでも教訓を得たものはいくつかある。

アルジャーノンに花束をは小学生の時に初めて読んで、大人になってからも何度か読み返した。普通の人生を一瞬に濃縮したようなチャーリイ・ゴードンの人生は、僕たちが長い時間かけていては気づかないものを見せてくれる。調べたら彼は32歳で、今の僕と同じ年齢のようだ。それを知り、少し複雑な気持ちになった。知能は彼に何をもたらしたのか。全てを理解できることは幸せだったのか、不幸だったのか。きっと両方だ。この話を読んで、知らなかった方が良かったと言い切れる人は、反出生主義の考えを理解できるかもしれない。僕にはその答えはわからないが、自然ではない何かをする時にはそれがどんな影響を及ぼすのか、考えなければいけない。そう思わせる物語でもあった。何でもかんでも見えるようにするのは考えもののようだ。感情を可視化しようなんてプロジェクトは、正しい行いなのだろうか。

西洋

バートランド・ラッセルの著作をいくつか読んで、なんとなく西洋哲学を理解した気になった。西洋では昔からこんな難しいことが考えられているのかと思うと同時に、人間がこの宇宙で特権的な地位にある世界観を背後に感じた。確かにこのような思想が根底にあると、本質主義的な心理学が登場するのもうなずける。洗練された思考に人間の叡智を感じた一方で、進化論を知った後ではどこか人工物がもつ空虚さを感じた。

異分野学術交流と越境研究

大学院時代にIEEE TOWERSという学術団体の実行委員をしていた。この団体では分野の垣根を取り払い文系も理系も関係なく、視点を交換するという目的を持っていた。非常に面白い活動だったし、今でも重要な意味のある時期だったと信じている。だけど、異分野の理解はそう簡単ではないことを実感し、異なる立場や考えを持つ人の間でそんなことは無理だとも思えた。ならば、僕という一人の人間の中でならば複数の思想の折り合いをつけることが可能なのではないのかと考え始めた。そんな甘い考えが混乱の始まりの一端を担っている。

似たような話だが、越境研究の研究者と知り合ったのも大きかった。越境研究が何であるかを正確に説明できないが、例えば、理系と文系のコラボレーションはどうすればうまくできるかなど、様々な分野間の「越境」をテーマにしていた。ここで得たものは、各分野の方法論的な違いよりも、スタートの思想がそもそも違うということだった。様々な知識が各分野に散らばっていて、一見一緒にやればもっとうまくいきそうな気がするが、そんなに簡単な問題ではなかった。Oliveの活動も非常に広い専門の上に跨がることは最初から容易に想像できていて、中心的な立場をどうすればいいのか悩まされることになる。

はじまりはいつもカオス

振り返ってみて思うが、脈絡のないイメージと知識が脳をかき乱していた。それぞれの話はとても興味深いし、どれもが本質を隠し持っているように思えた。だけど、その間を繋ぐ術はわからないし、そうすべきなのかもわからない。整理しようにも、それぞれを深く知っているわけでもない。

このような感じで思考の焦点が定まらず、知ってしまったことに折り合いをつけようとしてしまう癖があるのかもしれない。そのせいで、何か一つの体系に定住できない。思考のアトラクターが浅いのか、それとも熱的なゆらぎが大きいのか。脳に入る情報が雑音だとすると、無駄に本を読んでいるという事実から後者の可能性が高いかもしれない。

しかし、有限な時間に生きる人間にとって、全てが整うまで考え続けることはできない。プロジェクトも進行を待ってはくれない。意外なことに、走り始めてみると思ったよりも整然としている感覚があった。現実世界の制約によって、実際に選ぶことが可能な選択肢が想像以上に少ないからかもしれない。冷静さを取り戻し、対象を絞り深める作業が始まった。しかし、物事とは不思議なもので、やっと近づけたと思ったら最初よりも遠くにいるものだ。そしてまた、混沌の中にいることに気づく。

目的の達成が平衡に向かうことと同義だとすると、それが幸せな状態なのかは疑う余地がある。ただ、世の中には僕をゆらがすものは無限に存在する。ゆらぎは平衡を崩し、新しいカオスを作り出す。そうするとまた平衡に向かう努力が始まる。こんなふうに考えると、始まりはいつもカオスであり、カオスは始まりだと感じる。

こんな話を聞けば、僕たちのプロジェクトが一向に収束に向かわないのは想像に難くないだろう。実際に、このプロジェクトの描く絵は広がっていくばかりだ。チームのみんなには悪いが、心の底では収束させる気なんてないのかもしれない。混沌は意外と心地いい。

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